子どものこころを

まんなかに


8. 友だち

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明治大学子どものこころクリニック」院長の山登敬之さんとの対談、第8回のテーマは「友だち」である。子どもにとって、友だちは宝ものだという気がする。友だちと遊んでいるときがもっとも楽しい時間だからね。

 などという思いではじめた対談なのだが、意外な方向に話が進んでいくので、少しばかり驚きの展開となる。

 さて——。

友だちがほしいけど、つくれない

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山登「友だちってどうしたらつくれるんですか、みたいな人生相談が、ときどきあるけど、ああいうのって困るでしょ? とくに、われわれのようなキャラクターだと、友だちはふつうにできる。自然にできるから、ほっとけば、友だちになれたでしょう? だけど、友だちができない子っているよね、自閉症の子もそうかもしれないけどさ」

松尾「そういう悩みというか相談する人って、年齢かかわらず……」

山登「関係つくれないっていうか、どうやってつくったらいいかわからないっていうか。日本語ってどうやったらしゃべれるようになるんですかって、日本人はふつう聞かないよね。人間にはそういう能力がもともと備わってるわけだ。それと同じで、人間関係をつくる力、コミュニケーション能力っていうのは、ある程度、もともとセットされてるものだと思うんだよ。だけど、最初の初期設定がうまくいってないのか、そこから力をつけていく課程が、その人その人で違うからか、集団に放りこまれても友だちができない、あるいは、友だちっていうのを必要としないみたいな人も何パーセントかいるわけだよね」

 

松尾「友だちなるものに、過大なる期待とか、人とは違う価値観とか、っていうものを持ってしまっているんじゃないの?」

山登「持ってしまっているんじゃなくて、それ以前に、さっき言ったように初期設定の問題と、環境の問題とあって、群れのなかで生きていけなかったら、人間としては大変なわけじゃない? 猿の社会でもそうで、群れで生きる動物は、最初からそういう関係をつくれないっていうのは致命的なんだよ。だけど、幸い、人間の場合は世のなか支えあいだから、そういう人も面倒もみましょうねってことになっているし、子どもはそうなれるように教育のシステムがあるわけだよね」

 

松尾「ふつうのお悩み相談くらいのレベルで、お友だちはどうやったらつくれるんでしょうかって言ってる人は、ご飯はどうやったら食べられるんですかっていうのと同じじゃない? そこにあるものを口に入れればいい……と、ぼくは思っちゃうんだけど」

山登「そうなのよ」

松尾「ふつうに、ヨオとかオハヨウとか言ったら友だち、それでいいじゃん、むずかしいこと考えずに……っていう感覚なんだけど、そうじゃないんだ?」

山登「そういうんじゃないと思うね。自然にそういう関係になれないんだから、センスがもともとないのか、それを邪魔するものがあるのか、育っていないのか……。友だちがほしいわけだし、友だちになりたいわけだけど、そのプロセスが上手に進まないってことだよね。いま言ったみたいに、そこにあるものを口に入れればいいじゃんって、われわれはそういう感覚だけど、そういう人たちは、これ食べていいんでしょうか? とか、どうやって食べたらいいんでしょうか? って感じじゃないの」

松尾「でも、お腹がすいてるって感じで友だちがほしいわけだよね」

山登「そうだね、さびしさみたいなものは感じてるのかも。そういうことを繰り返していくうちに鬱陶しくなって、友だちなんていらないよ、さびしいけどこっちのほうが気楽でいいとかさ、そんなふうになっていくんじゃないの。そうなれない人は、世のなかを逆恨みしちゃったりとか、ストーカーみたいなことをしてみたりとかさ。そんなふうになっちゃうかもしれない。

 最初の段階での出会いというか、集団での出会いというか、それまでは、親兄弟しかいないわけだよね、子どもの世界には。はじめて出会う家族以外の人間として、同世代の子どもといっしょにされて、みんなお友だちよってことになって……。だいたい、保育園でも幼稚園でもさ、“お友だち”じゃない? 呼びかたは。なんとか君はお友だち、かんとか君はお友だちじゃありませんって分けないよね。近所の子だっていっしょに遊んでれば、お友だちなんだよね」

 

松尾「最初に友だちをつくるところに不安がある子は、親から見ても、たとえば保育園の状況から、小学校にあがるときに、この子、大丈夫かなって心配になる」

山登「それは園に通わせてるからわかるわけだよね。集団でみんなワイワイやってるのに、うちの子はひとりだけ遊んでるとかさ、運動会でも集団でやるお遊戯や駆けっこに参加できずに、先生の横にいつもいるとかさ」

松尾「その子は、友だちになりたいなって思いながら、先生の陰からこうやって、遊びたいなぁって思ってる」

山登「かもしれないし、あそこにはぜったいに寄りつきたくないって思ってるかもしれないし……」

松尾「それは、もう、教育の専門家とか児童精神科の領域でしょう?」

山登「うん、そうね。ただね、やっぱり、昔に比べると、前も話したように核家族化してるし、少子化してるしさ、集団に入る前の基本的なトレーニングができてない感じはあるね。昔だったら、幼稚園に入る前から近所の子どもといっしょに上のお兄ちゃんにくっついて、いっしょに遊んで……あるいは、近所に子どもがいなくても兄弟が多ければ、そのなかで揉まれてとかあったけど、いま、ないから……」

 

 昔は兄弟も多くて、幼いときから兄に連れられて近所の悪ガキたちと遊び、みたいな環境があったけれども、いまは少子化でそういう人間関係の訓練のような場面はない。ママやパパといた家から突然「お友だち」がいる保育園とか幼稚園に行かされる。これが意外に、友だちづくりが不得手な子を生んでいる原因かもしれない。

 

社会生活を学ぶ過程としての友だち

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 私は、対談の前につらつらと「友だち」について考えてみた。というか、子どものころを思い出そうとしたわけだが、そこでひとつ、気づいたことがある。小学校のころの友だちと、中学以降の友だちとは、少しばかりニュアンスが違っているのではないかと……。

 

松尾「小学校のときは、ほっといてもみんな友だちなわけで、それは、同じクラスになって集団生活をしているってことだよね」

山登「そうだよね」

松尾「みんなで遊んだり、勉強したり……ということが友だちであって……なにか悩みを聞いてくれるとか、相談ごとにのってくれるとか、彼女にアタックするのに手伝ってくれるっていうような友だちって、小学校のときにはいないと思うんだよね」

山登「いないね」

松尾「そもそも、小学生は、そういう社会行動を取ろうとしないから」

山登「やっぱり思春期以降っていうのは、友だちの意味も違ってくるよね」

松尾「そうそう。性的なことが自分のなかで芽生えると、恥ずかしいから、そっと誰かに相談する。そしたら、相談相手も実はおれも、とか、うちにエッチなものを見にこいよ、みたいな話になる」

 

 とはいえ、結局、それは、性的に目覚めると、友だちと話す内容が変化していくだけってことかもしれない。それまではアニメやゲームに興味があったのが、やがて、女の子のからだに興味が出てくる、だから、話題が変わる……みたいな。

 

松尾「友だちって……さっき、山登さんが言ったけど、人間は社会的な生きものだから、集団なくしては生きていけないので、学校で人間関係を学ぶ機会を与えられている。そこを通して、子どもたちは集団生活を学ぶ、と」

山登「そのなかで、自分のタイプが見つかっていくわけじゃん。この子とは友だちになりたい、こいつは寄ってくるけど友だちになりたくない、みたいなことも覚えていく。人間関係を覚えていくわけだよね。そこでセレクトされたお友だちっていうのは非常に大事な存在になるわけ、家族とはまた違う意味で……いちばん対等な関係っていうかさ。

 思春期のころにマウントを取り合ったりするけど、クラスなり部活なりを通して、大事な友だちっていうのができる。さっき言った、親にも話せないことを話せるような……だから、学校はそういう関係をつくる学びの場でもあるし、そこで自分が好きになれる相手、自分にとって大切な人間を選ぶ力をつけていくんじゃないかな、子どもは」

 

同窓会

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 そうやって学校というシステムを中心にして、友だちづくりを学び、やがて、ほんとうの友だちと出会える。高校を経て、大学生になってからの友だちは、社会に出てからも続いていくパターンが多いのではないだろうか。大学というのは、高校よりも一段アップして、社会に近づいているからかもしれない。

 

山登「いまもさ、おれは誰かのことを友だちだと思っている。何年も会ってないけど友だちだと思ってるわけじゃない? たとえば、大学のときに演劇のサークルで出会ったコハラくんとかさ。ふだんはぜんぜん会わないけれども、友だちだと思ってるわけですよ。あいつも東京に出てくると電話くれて、ちょっとだけでも会ったりするから、いつでも会えるはずと思っているし、向こうもきっとそう思ってるんだろう。そういうの、年取ってくると、大事になってくるんだよ」

松尾「そうね……」

山登「ねぇ」

松尾「高校の同窓会……最近、そのころの友だちと会っていいなと思うのは、社会的なしがらみとか社会的な自分のポジションとか、やってきたことを全部取っ払って、そのころの関係に戻って……というのは、非常にありがたい」

山登「ところがさ、変わっちゃってるやつは変わっちゃってるじゃない? あれ? こんなやつだっけ、みたいなさ。同窓会の何時間はいいけどさ、そのあと、なつかしいと思って何度か会ってたりすると、ええー? みたいな。がっかりすること、あるよね」

松尾「たとえば、30代のときの同窓会っていうのは、あんまりよくないと思うね。なんでかというと、自分の社会的ポジションを獲得する時期だから。おれはいま会社でグリグリしてるぜって顔して現れても、それは関係ないから、みたいなさ。女の子なんかとくに着飾り感とか彼氏が金持ちだとかさ(笑)。だから、同窓会がおもしろくなるのは、ぼくらくらいの年齢からですよ。みんな定年前後で、ちょっとヒィヒィ言ってる感じがいいなって思う。おれも、20代とか30代のころなんて、あんまり同窓会とか出なかったし、会ったらきっと、ウザいタイプだったと思うんだよねぇ、おれ」

山登「はははは(大笑い)」

松尾「いやなやつ、ですよ」

山登「『週刊プレイボーイ』で女の子、脱がしてるし」

松尾「それでエラそうなことを言うつもりはないんだけど、言っちゃってたと思うんだよねぇ」

山登「うんうん」

松尾「そういう意味では、幼いころの友だちっていうのは、大事」

山登「大事だね。おれなんか、幼稚園のころからつきあってるやつがいてさ。幼稚園のときは、おれが弟分みたいな感じだったのね。運動会の徒競走で、走ったら、おれは転んじゃったんだ。そしたら、そいつはね、止まって待ってたんだ、おれが起き上がるまで……」

松尾「ほお」

山登「そういう話をね、お母さんたちが何度もするもんだから、すっかり刷り込まれちゃって。幼稚園に送っていくだろ、親が、そうすると親から離れられずにギャアギャア泣いてんだって、ふたりで」

松尾「ふたりで?」

山登「お母さんたちは子どもを先生に渡して帰るよね。オレたちは、お母さんが帰っていくのを見送りながら、幼稚園の窓だか玄関だかわからないけど、そこから動かず、ふたりで泣いてたって言うんだよ。あんたとトオルちゃん(仮名)だけが最後までって、あとあとまで言われたよ。

 そいつはお父さんが一代で財を成した家の長男で、2代目の社長になって羽振りはいいんだけど、やっぱり大変なわけよ、いろいろと。おれがこういう仕事してるっていうのもあるんだろうけど、あれこれ相談してくる代わりに高い店で奢ってくれる。こっちは一度も財布を出したことないんだけど、それでいいと思ってるし、やっぱり対等な関係だと思ってる」

松尾「中高もいっしょだったんですか」

山登「いや、違う。そいつとは幼稚園と小学校だけ。小学校は3年間だけね。30歳になるときに、いっしょに同窓会をやったんだよ、企画して。それから、ぽつぽつ、つき合いが戻って……だけど、ぜんぜん生きてる世界が違うわけ。休みの日とかなにしてるって聞かれても、いやなにもしてないよって。まぁ話してもわかんないだろうってこともあるし、聞かないほうがいいこともあるし……でも、やっぱり、幼稚園の出会いが刷り込みみたいにあって、さっきのコハラくんとはぜんぜん違う話だけど、そいつのことも友だちだと思ってるわけ、おれは。向こうも、ふたりは変わらない関係だと思ってるから、いろいろ相談に乗ってくれってことになるんだと思うし……それはそれで大事なことだから」

松尾「いまでも話が聞けるというのは、幼いころの体験を同じくしたから、お前にはなんでも話せるんだよ、という感じなんだろうね」

山登「そうだよね。どこかアタマがおかしくなっちゃったり、思春期にひねくれちゃったりして、いやな人間になってたりしたら、ぜったいにそんなことはないわけじゃない? 最初にあった根っこのところは、そんなに変わってないってことなのかもしれないね」

松尾「そうね……幼いころの友だちって、仕事とか、社会的な立場とか関係なく、対等で、個人と個人のつながりがある。社会的なものを全部取っ払って、生な感じで触れ合えると、ずっと友だちでいられるかもね」

 

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人間関係の望ましい最終形態

松尾「子どもにとっての友だちと、おとなにとっての友だちっていうのは同じなのかな? きのうの夜とか、こうやって話をする前までは違うんじゃないかと思ってたんだけど……話してみると、どこかつながるね」

山登「いろいろ人生の経験を経て、大切な友だちに戻るっていうか。だから、人間関係の望ましい最終形態っていうのが、友だちだと思うんだよね。似たようなことを橋本治が書いてるのを読んで、おれは感化されちゃってるのかもしれないけど。幼稚園、小学校のときは損得抜きなわけじゃない? そいつといっしょにいるとか、いっしょに遊ぶとかっていうときは。社会に出るまでに互いにいろんなものを身につけてくると、同窓会で会ってみたらいやなやつ、みたいなことに変わってくるわけだよね。そんなときを経て、大切な人間が残っていくと。家族を超えた、要するに赤の他人だけど、人間関係のかたちとして、最後に残るのは、友だちじゃないかと思うんだけど……」

 

 対談の前に、山登さんからメールがきた。そこにはこんなことが書いてあった。「友だちは人間関係の終着点。友だちは100人もいらないよって話」

 

松尾「きのうのメールにはさ、友だちは人間関係の終着点って……」

山登「終着点というのはゴールみたいに聞こえちゃうけどさ、最終形態ということじゃないか」

松尾「確かに、夫婦関係のなかでも友だちである部分っていうのがあって……年取って性的なものがなくなっていくと、最終的に友だちになるかもなぁ、と思った。親子関係はこうはいかないよね。友だちにはなれない」

山登「そうそう。“友だち親子”とかいう言葉がさ、一時流行ったけど、馬鹿じゃないかと思うよ」

松尾「それはないよね」

山登「そんなこと言ってるやつは、ダメ。親としての責任を捨ててる感じだよ」

松尾「そうだね……子どもから見下されてるってことだと思うよ」

山登「やっぱり責任取りたくないんだろうなと思うよね。そういうことを親のほうから言うって……」

松尾「最終的な形態は友だち……あと大事なのは、そんなに数はいないよね」

山登「それはそうだよね。友だち100人できるかなっていうCMあったじゃない? 『小学1年生』だったかな。だけどさ、あれは強迫観念になっちゃう子がいるんじゃないかって……友だちがたくさんいないといけないみたいに。友だちができない自分は、みんなより劣っている、みたいな方向にいくと可哀想だよね」

 

松尾「最初の話に戻っちゃうけど、私どうやったら友だちできるでしょうとか、友だちができなくて困っている人って、そういう強迫観念じゃないけど、みんな、ふつうに仲よくなってどんどん数が増えてって100人くらい友だちいるのは当たり前でって思ってるかもしれないね。その子に、いやいや、友だちってそんなにかんたんにできるもんじゃないんだから、できなくて当たり前なんだよっていうことを言ってあければ、なるほど、そういうもんなんですかってこともあるかもね」

山登「うん。それはいいアドバイスかもしれないね。無理しなくてもいいんだよ、と」

松尾「そうなんだよ。友だちなんて、基本的にはいないよって……まぁ、ひとり思い浮かべて、それくらいじゃない? みたいな感じかもね」

 

友だちは幻想の共有

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 このあたりで、私の思いは「友だちって、基本的にはいない」というところに向かいはじめる。100人なんてことにはならないまでも、ひとりやふたりは、幼いころころも高校時代も大学時代も仲がよかったやつはいる。社会人になってからもつきあった。けど、そんなに熱心に会ってたわけでもないし、そいつがいないからといって、人生が激変するわけでもない。山登さんが言うように、こちらが勝手に「あいつとは友だちだ」と思っている……そういうあたりが、ごく当たり前の感覚のような気がする。

 

山登「東田くんなんて、自閉症の人だからさ……ぼくには友だちはいないけれども、友だちがいない人生もいいもんだ、みたいなことを書いてるよね」

 

 東田くんというのは、東田直樹氏のことで『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』という本が世界的なベストセラーになった。雑誌『ビッグイシュー』で、山登さんと往復書簡をやりとりし、それがまとまって、『東田くんどう思う? 自閉症者と精神科医の往復書簡』(角川文庫)という本にもなっている。

 

山登「おれは2年半、往復書簡をしてさ、最後にさ、ぼくたちは少し友だちになれたかな、みたいなことを、読者に対するくすぐりもあって書いてみた。連載が全部終わったあとで、ふたりで講演会をやったんだけど、そこで、山登先生は友だちじゃないと思いますって、きっぱり言われちゃってさ。でも、彼もずるいっていうかね、ぼくたちは友だち以上に語り合ったんじゃないでしょうか、とか書いたりするんだよ」

松尾「やられちゃってるじゃないですか」

山登「やられちゃってる、完全に。彼には、友だちって感覚がわからないってのはあると思うんだよね。なにしろ、2歳か3歳くらいのときに自分が人間として生まれてきたことに気づいて愕然としたっていう男だから……世界はこんなに美しいのに、どうしてぼくは人間の仲間なんだって。彼にとっては、風や木やお日さまが友だちなんだよね。だから、感覚が違いすぎてて、あんたが言ってる友だちっていう、その人間関係のありかたが自分にはよくわからないから、ぼくの友だちではありませんっていうふうに、東田くんは言ってるんじゃないかなと想像してるわけ」

 

松尾「その話で、いまふとわかった気がしたのはね、友だちってなんだっていったら、たとえば、この年になってですよ、自分が生活に困って困窮してるときに手を差しのべてくれるっていうのが友だちかっていうと、そうじゃないわけじゃない? ほんとに困ったときに助けてくれるのが友だちって言うけど、そんなことを期待してはいないし……。友だちって、意外に、おれ、あいつのこと友だちって思ってるんだ、とか、あいつはいまでもわかってくれてるんだとか、そんなふうな幻想のようなものが、友だち観のなかではとっても大事で……」

山登「そうですね。幻想を共有できるかってことなんじゃない?」

松尾「そうなんだね。子どものときの体験は、幻想になりやすいし、美しい思い出として残りやすくて、幻想を補強するけど、大事なことは、幻想であって、友だちなんだっていう感覚とか理解なんだね」

山登「だから、ほんとにさ、金貸してくれって言えるかとか、金貸してくれって言われたら貸すかとかって、やっぱりそこで壊れるものがあると思ったら、どっちもいやじゃん」

松尾「友だちには貸すなとか、友だちだからこそ貸さないとか、言うからね」

山登「それは、力関係ができちゃうからだと思うんだよね。よけいな力関係が入りこんじゃう。金を貸すっていうのは、ほんとに、いちばんわかりやすい指標かもしれないけど……こっちから貸そうかっていうのもためらわれる。金の話とかべつにして……友だちには、なかなか、ありがとうって言えない、恥ずかしくて……みたいな話もあるよね。タモリの弔辞じゃないけど、赤塚不二夫には一度もありがとうと言ったことない、みたいな」

松尾「それはそうかもね」

山登「そういう……損得を取っ払った関係なわけじゃない?」

松尾「ますます友だちって、幻想でしょう、それは」

山登「うん、うん」

松尾「いつの間にか自分のなかでの友だち観みたいなものが成立してて、友だちにはありがとって言えないから友だちなんだよね、とか、ありがとうって言ったことないけど、あいつとは友だちだよねって思ってる自分が好き、みたいな」

山登「自己愛を投影してるわけだよね」

松尾「ひどく、そうです」

山登「幻想っちゃあ、幻想ですよ。でも、自分にとって大切っていうのは、幻想を共有できるっていうこと。そういう関係っていうのは、あんまりないわけだよね」

松尾「そうね」

山登「松尾くんの言うように、子どものときはそんなこと考えてもいないわけだから。でも、相性みたいなものがあって、出会いがあって、一生の友だちになるってこともあるだろうし、自分の郷愁のなかで大切な友だちと思ってたりする……それは、おとなになって幻想を持つ力がついてくる……相手に自分の思いを投影するって力がついてくるっていうプロセスを経てるからかもしれない」

松尾「すごく人間らしい、人間ならではの関係……。友だちって、非常にもやもやとした、でも、とっても大切なものだね。夫婦とかカップルっていうのは、肉体的な関係が成立するから、ある種わかりやすいんだけど、友だちっていうのは肉体関係が成立しない、ずっとイメージのまま……だから、よけい美しくもあり、醜くもあり」

山登「美しいほうにいくと、プラトニックだね」

松尾「そうそう。プラトニック。だからこそ、人間的だし、はかないし……幻想だしっていうことがあるかもしれない」

 

山登「よく男女で友情は成り立つかっていうくだらない議論があるじゃない? 異性だって友だちになれると思うんだよね、実際にいると思うし。異性の場合はタイプっていうのがぜったいあるわけじゃない。逆に、タイプじゃない人なら友だちになれる可能性があるわけだよね」

松尾「それはある。友だちって、見た目は置いといて、だからね。やっぱり、プラトニックだねぇ」

山登「そういう意味で、最終形態……」

松尾「そうかもしれない」

山登「高みにあるというか……」

松尾「大きなテーマだねぇ。大きなテーマだけど、この年になってしゃべってるほうがおもしろいと思う」

山登「友だちとはなにかって?」

松尾「小学校とか中学校で、友だちとはなにかって語らせても、なんにもおもしろくない気がする」

山登「そうかもね。いろんな人間関係のありかたを知って、こういう話をするから、いい……。おれなんか、患者さんに対しても友情を感じる人はいるよね。だけど、それこそ幻想だから共有できない。向こうはそんなことを思ってもいない。でも、ちょっと感じてるかもしれない、とかさ。

 異性に対しても、この人いいなって思ってグイグイ最後までいくかっていうと、そうじゃないなんだけど……なんか、友情のようなものとか性愛のようなものとか、相手によって、そういうエロスを抱きつつ、関係が続いたり、どこかで途絶えたり」

松尾「深いね……」

 

 ほとんどリアリティのない「幻想」とか「自己愛の投影」みたいな話になってしまった。でも、友だちというのは、そういうものだと思う。日々の生活には関係しない、どこか遠い、お伽噺のような存在……。子どものころ、いっしょに走りまわった、いたずらした、先生に叱られた。大学生のころ朝まで議論した、社会人になって酒を飲んだ……などなど。まさに、自分の人生のいい部分を象徴して存在するもの、それが「友だち」かも……。

 そんなことを考えた今回の対談だった。この年になって、そういう話をふたりでつらつらと……というのが、また楽しいってことかもしれないのだが。