子宝ロダンは、ブロガーである。
他人のセックスを克明に報告するブログをあげている。
まわりが、ことごとく妊娠する、ゆえに「子宝」と名乗る。
いつか「子宝教」を興すつもり、らしい。
「ロダン」は、オーギュスト・ロダンに憧れて。
「彫刻をひたすらに創り続けて生きる——なんとうらやましい人生であることか」
プロフィールを読むかぎり、まったくいい加減で、ペテン師のような男である。
〈6〉
圭介は、自転車に乗って実家に行くことが多い。美由紀が実家で寝起きしているので顔を出さないわけにもいかないのだが、このところ美由紀はあまり圭介と顔を合わせたがらない。
なので、実家に行っても、居心地の悪い気配に身を縮めることになる。
圭介の実家は経堂駅南にある農大通り商店街にある洋服屋だ。
父親は圭介が高校のときに心臓病で亡くなった。
六年前まで母親が洋服屋を切り盛りしていた。
圭介は高校卒業後に入った私立大学で将来への展望を描ききれずに、一年留年したあと、結局、周囲の就職活動につられるように、わりと大手のインターネットショッピングモールを運営する会社に就職した。日本でもようやくインターネットでの商取引が活気を帯びはじめていたころだ。
「これからはコンピュータだよ」
などと母親を説得し、実家の洋服屋にもコンピュータを導入させた。とはいえ、小さなデスクトップのコンピュータを買わせただけだ。が、いつも会社でやっているネットショップ立ち上げ支援のノウハウを自宅に取り入れることで、ずいぶんと見えてくるものもあった。
どこにでもある駅前の洋服屋というだけでは、客はどんどん減ってしまう。ユニクロなどのカジュアル衣料の大手が飛躍的に伸びている反面、百貨店や既存のブランド衣料の売り上げは落ちていた。
まして農大通りのはずれにある洋服屋で洋服を買う者など、とうの昔にいなくなっている。
実家の洋服屋でネットショップをはじめたころ、古くからの仕入れ先である香澄屋の社員と飲みにいく機会があった。香澄屋というのは、上野にある洋服問屋である。
たまたま実家に顔を出したときに姿を見せていたその大村という男から、なんの気まぐれか食事に誘われた。そのときの大村との会話が、圭介の人生を大きく変えたと言っていい。
「圭介さんが店を継ぐときには……」
みたいな言葉が、大村の口から出た。経堂駅前の小さな居酒屋で、ビールを飲みながら餃子をつまんでいるときだ。
圭介にしてみれば、実家の洋服屋をやることなど考えてもいなかった。いわゆるIT企業で働きはじめ、ようやく仕事がおもしろくなってきたところだ。自分の人生は、いまの会社で続いていくものだというぼんやりとした思いがあった。
「おふくろで終わりじゃないですかね。駅前商店街の洋服屋なんて、これから先はもう、業態としてありえないでしょう」
社会に出て四年あまりを過ぎて、圭介は、そんなふうな生意気な口のききかたをしていた。
「ほお」
大村が少し目を細めて、くちもとをひきしめた。
「じゃあ、なんのためのIT、なんですかね」
気負った雰囲気は見せずに、大村はかすかな上目づかいで圭介を見た。
「圭介さんが勤めてるのは、ネットのショッピングモールですよね。そこが成功するには、モールに店を並べる商店が成功しなくちゃいけないですよね」
「ええ、そりゃそうです。そのために、けっこう細かい支援をしてますからね、私たち」
「ネットショップって、実店舗がない場合も、けっこうあるんでしょ」
「ありますね。若い主婦が小遣い稼ぎで自宅マンションでやってる、なんていうのもあります」
「ふむふむ、そこですよ」
大村の顔つきが、ふいにやわらかくなった。
ネットショッピングの黎明期である。いま思えば、大村という人間に先見の明があったのは間違いない。
大村は、香澄屋に勤めて八年めらしかった。彼自身、問屋特有の古い体質に疑問を感じていたようだ。インターネットの普及には大いに危機感を持っていた。ある意味、圭介と同じように「業態としての古さ」を強く感じていたのかもしれない。
「うちは上野に店と倉庫があるんですけどね。そこに最近、スタイリストと称する連中がよく現れるんです」
やってくる若いスタイリストたちは、中堅以下のファッション雑誌の仕事をしているのだという。大手出版社から出ている有名ファッション誌はブランドものの洋服を自由にコーディネイトしてページづくりができるが、小規模の雑誌ではなかなかそういう派手なファッションページはつくれない。
「マイナー雑誌じゃ、有名ブランドから服を貸してもらえないそうです」
それで、もっぱら、読者モデルを撮影する。原宿や渋谷あたりの街頭にカメラマンと立ち、センスのよさそうな着こなしをした若い子に声をかけて写真を撮って誌面で紹介するのである。
「そういうときにね、ちょっと一枚カーディガンを羽織るとか、スカーフをあしらうとか、ストッキングを替えてみるとか、ささやかな工夫をすると見違えるんだって、そのスタイリストたちは言うわけです」
そういう「ちょっとした」小物を、スタイリストたちは香澄屋に探しにくるのである。どこのブランドのものでもない、値段が安いという理由だけで仕入れた商品が、香澄屋の倉庫にはあふれている。
「なかなかセンスがよくて仕事のできるスタイリストがいるんですよ。まだ卵ですけどね。前から目をつけてる子が何人かいて、できるだけその子たちとは時間を見つけて話すようにしてるんです。お茶とかに連れ出してね」
目をつけていると大村が言ったので、圭介は、かわいい女の子たちなんだろうなと勝手に想像した。
「どうです、圭介さん。そういうスタイリスト、今度、紹介しますよ」
大村から笑顔でそう言われて、圭介はすかさず返事をしていた。
「いいですね」
合コンでもやろうという誘いなのかと思った。
すると、大村はふいに表情をひきしめたのである。
「実家の洋服屋が業態としてだめだなんて言う前に、ちょっと工夫をしてみちゃどうですか。そういうスタイリストにコーディネイトをさせてみりゃいいんですよ。だめでもともと、洋服はうちに山のようにあるわけだし、卵ちゃんたちはそういうことをやりたくてしょうがないわけだから」
仕事の話だとわかり、圭介は少しばかり意外な思いだった。だが、とにかく、そのころの圭介には母親の店に興味はない。
「そんな若い子向けの服なんて、うちの店じゃ売れませんよ。やってくるのはおふくろの友だちばっかりなんだから」
「いや、だから、そこはIT、でしょ」
「は?」
「インターネットの世界じゃマンションの一室でショップが開けるんでしょ。こっちは、それよりはるかに本格的ですよ。だって実際に店があるんだから。藤森洋服店のネット版、がらりと若い子向けに……どうですかね」
若者向けのファッション誌やスタイリストと関わりを持つなんて発想は、間違いなく母親にはない。まったくべつの世界なのだ。銀座や青山に出店しているブランドものの洋服と、実家で売っている洋服は違う世界のものだと思っている。
しかし、確かに、香澄屋に洋服小物を探しにくるようなスタイリストの卵なら、圭介にも理解できるような気がする。経堂駅の周辺に住んでいる若者のなかにも、そういう仕事をしている子がいるかもしれない。それに店の前を歩いているのは農大に通う学生が多いのだ。
「スタイリストねぇ」
まんざらでもないという顔つきで、圭介は大村を見た。
大村は、すでに二杯めのジョッキを空けて、ほんのりと目もとが赤い。
「マンションの一室で趣味にまかせて主婦がやってるショップになんて、私ら、とてもじゃないけど商品は卸せません。でも、藤森洋服店とはおじいちゃんのころからのつきあいですよ。私らから言わせれば、格が違うんですよ。ね、圭介さん、そういう店をかんたんに辞めるなんて言っちゃいけない」
どこか説教くさくなって、圭介は苦笑した。
「でも……」
と、圭介は声を落とす。
「スタイリストたちにコーディネイトさせて売るのなら、ぼくらじゃなくて、香澄屋さんでやればいいのに……」
そのとたん、大村は大きくうなずいてから、笑った。
「あはは、それ、それ」
なにがおかしいのか、大村はずっとくちびるを曲げたままだ。
「そこがまた悲しいかな、私らは問屋なんですよ。お客様との長いつきあいを無視して、勝手に洋服を売っちゃあいけない。たとえネットでも、ね。そんなこと、できません、やる気もありません」
などと鼻を鳴らす。
大村はきっと、いま話したアイデアを社内でプレゼンして、否定されたのかもしれないと圭介は思った。
自分たちのところにやってくる子羊のようなスタイリストの意見を生かしてビジネスができないか——。悪くないと圭介は思った。
「悪くない。やりましょう」
そのときから、圭介には、実家の藤森洋服店をネット上の仮想空間で若者向けに広げるという目標ができた。
大村が圭介のところに連れてきたスタイリストの卵は、年齢は二十一歳で専門学校を昨年出て、いまは阿部友希というスタイリストのアシスタントをしているのだと言った。
「専門学校なんて、あるの?」
「ありますね。ほにゃららスタイリスト学園とか」
名前は田中ヒロミ。たぬきに似ていた。ほにゃららというのがどういう意味かわからなかった。そういうふうに、どこまで冗談でどこまでが本気で、天才なのか阿呆なのか、わからない女だった。
とにかく、よく働いた。
結局、その田中ヒロミが優秀だった、と、いまは思う。
藤森洋服店の一角にヒロミコーナーをつくった。つくったといっても、マネキンを一体、店のすみっこに置いたというだけのことだ。
そのマネキンにヒロミが服を着せて圭介が写真に撮り、藤森洋服店ネットショップで売る。
最初はそうやって圭介が写真を撮っていたのだが、ヒロミはひと月ほどすると、きれいな若い女を連れてきて、その子に服を着せ、若いカメラマンに撮らせた。みんな自分の友だちで、モデルやカメラマンの卵たちという話だった。そのうちすぐにウェブデザイナーと称する若い男が現れた。
「みんな住んでるのが、下北とか吉祥寺とか、三茶とか……モデルの子なんて松陰神社前だし」
経堂という場所がいい感じなのだとヒロミは言った。
圭介はなにもする必要がなかった。
店を改装したわけでもない。壁の色が変わったくらいだ。それに関してもヒロミは自分の友人だという芸大の女の子を呼んで、ベージュとピンクと黄色にペインティングさせた。
二か月ほどすると、店のほとんどすべてがヒロミが選んだ洋服で占められるようになった。
母親は大喜びだった。ヒロミは母親の友人たちのためにも洋服をコーディネイトした。それがまた、母親たちの世代にも評判がいい。
年齢層に関係なく価格が安くてセンスがよくて、これで人気が出ないわけはない。
わずか一年ほどで、藤森洋服店のウェブサイトはアクセス数が月に数万を超えた。もっともすごかったのは、ヒロミのつてで、女の子向けのファッション誌に藤森洋服店が紹介されたときだ。月に四十三万ベージビュー。売り上げはその月だけで、一千万円を超えた。
舞いあがりたいほど儲かった。
充分に事業資金くらいの金額は貯まったが、圭介は会社を辞めなかった。この成功は田中ヒロミという才能がつくり出していることを忘れたことがなかったからだ。
ヒロミがいてくれたおかげで、圭介は店のことに関してはなにもする必要がなく、ふつうに会社に出かけて、当たり前のラリーマンとして仕事ができた。
二年半がたち、田中ヒロミがニューヨークに行くことになった。しばらく向こうで暮らすのだという。
残念だったが仕方なかった。圭介はわずかだが餞別を贈り、これまでの労をねぎらった。毎月売り上げの数パーセントを渡していたから、それが彼女の渡米資金になっているに違いなく、ヒロミも圭介にとても感謝していた。
小さな商店街の小さな店を維持するには、田中ヒロミの才能は大きすぎたのかもしれない。彼女はいまでは、ニューヨークの大物バイヤーのひとりと呼ばれているらしいし、彼女が当時連れてきたモデルやカメラマンやウェブデザイナーの卵たちは、ほとんど全員、いまは有名なアーティストになって、あちこちの雑誌やテレビで名前を見る。
田中ヒロミがいなくなってもちろん人気はおとろえたが、圭介はそこからが正念場だと覚悟していた。
なにより、香澄屋の大村の意気ごみがすごかった。
「これからだよ、圭介さん。ヒロミちゃんのノウハウは、おれなりに引き継いでいくから」
田中ヒロミが二年半の間に好んでピックアップした洋服メーカーや裁縫職人を、大村はじっくりとフォローしていたようだ。
それから一年ほどして、圭介は会社を辞めた。いまこそ洋服店の経営に本腰を入れるべきだと、気負うことなく思ったのである。世田谷通り沿いにマンションを借りて、そこに自分の住まいを移し、毎日店に顔を出すという生活になった。
とにかく、田中ヒロミがやっていたことを藤森洋服店の身の丈に合うものとして、じっくりと育てていこうと圭介は考えた。
圭介と大村は、これまでと同じように、アーティストの卵たちとのつきあいを大切にした。彼らに機会と場所を与える。彼らが自由に創作できる雰囲気づくりを尊重した。
そうすると、友人が友人を呼び、センスのいい学生たちの溜まり場になる。
もちろん田中ヒロミほどの才能とは、なかなか巡り会えるものではないが、経堂の商店街にはちょうどいいサイズで、彼らの才能に頼り、また信頼される関係は悪くなかった。
小さな店だが、原宿や渋谷あたりのセレクトショップに負けない品揃えとセンスがある。しかも、ネットショップは全国どこからでも購入できる。
間違いなく商店街の洋服店としては成功しているほうだと思う。
「みんな大村さんのおかげですよ」
と、いまでも夕方になると餃子をつまんでは、圭介は大村に感謝する。
「いやいや、圭介さんもがんばった」
「結局、ヒロミちゃん、ですかね」
ふたりは会話はいつもそこにたどりつき、いつも笑いで終わる。
大村は、社内プロジェクトとして、フリーのスタイリストたちを組織して、取引先の小さな店に派遣するシステムを立ちあげていた。疲弊している商店街の洋服屋を支援しようという試みだ。普及するにはまだいくつもの壁がありそうだが、洋服店からは好評な声も多いと聞く。
いまはどんどん商店街がすたれ、若者がいなくなり、ますます若いセンスが遠ざかっていく。そんな現状を、大村なりになんとかしたいと考えているようだ。
「うちの取引先は関東一円なんだよね。東京を一歩出りゃあ商店街はどこも同じ、シャッター通りになっちまって、もうおれたちの力だけじゃどうしようもいなんだけど、なんかやってないとさ」
「そうなんですよ、うちなんて文句言いつつも小田急線沿線だから。まだまだ恵まれてるほう」
「あとは圭介さんが結婚して、子どもができれば、お母さんも大喜びだ」
そう笑う大村は、美由紀のことも知っている。
「まあねぇ」
と、そのときの圭介の声が沈んでいたのだろう。
「どうしたの?」
大村も、ぼんやりと顔を曇らせた。
美由紀がまだ離婚しておらず、圭介の子どもを身ごもっていることは承知しているし、彼女の夫が妊娠を知ったとたん離婚したくないと言いだしているということも告げてある。
「向こうの旦那、まだなにか言ってるの」
「うん、それは相変わらずね……子どもは自分が育てたいって」
「おれもよく知らないけど、離婚とか子どもの認知ってさぁ、法律は法律として、やっぱりほんとのところがどうなんだって話がいちばん大切なんだってね」
大村は圭介をなぐさめるような口調で言う。いつも真っ白なシャツに派手なネクタイをしている。同じネクタイをしているのを見たことがないのは、どこかの展示品をうまく使いまわしているのだろうか。
「この前、あるところで若い弁護士に会ってさ、ちょっと聞いてみたんだ。離婚後三百日って話も、結局のところ、裁判所が気にするのは現実なんだってね。ほんとは誰の子で、夫婦生活が破綻していてってことがわかれば、新しい夫や子どもに不利な調停にはならないらしいよ、いまは……」
「うん」
うなずきながら、大村のやさしさが身に染みた。
「まぁそれもあるんだけど……」
ためらいがちに、圭介は言ってみた。
「ここにきて、ちょっとびびってるって言うかさぁ」
「びびる?」
「子どもを奪い取れたとしてさ、おれに子どもなんて、うまいこと育てられるのかな、とか。いままで独り身なんだよ、それが結婚して、そのうえ子どもまで……ねぇ」
「まぁ、いままでみたいに、若い学生を好きなだけつまみ食いってわけにはいかないわなぁ」
大村は派手に笑う。田中ヒロミがいたころはなかった話だが、彼女がいなくなり、自分が店をやるようになってから、若い学生たちの何人かを誘い、よく遊んだ。才能を伸ばしたいスタイリストの卵とショップオーナーだ。そういう関係にならないほうが不思議だと、圭介は思っていた。
「けどまぁ、結婚っていうのは運と縁のもんだから」
と、ふいに、大村はまじめな顔をした。彼は妻帯者で幼稚園に通う女の子がいたはずだ。ときどき、ひどく地に足がついたようなことを口にする。
「自信があって結婚したり子どもができるんじゃないんだよ。あとからついてくるもんなんだな、自信ってやつはさ」
「おお、さすがおとなだねぇ、言うことが」
「大切なのは勢いだ。圭介さんは、いまはそういう勢いに乗ることが大事さ。あんまりむずかしいこと考えないで、目の前の女と結婚して、ばたばたしながら子ども育てて、夢中でやってりゃ、気づけば十年二十年たってるもんさ」
「なるほどなぁ」
と、そのときは、しみじみと大村の言葉に感動したのである。
〈7〉
九月十九日、土曜日。そろそろ午後三時に近い。新宿の戸山公園の近くの路上に子宝ロダンはひとりでいた。
「確か、このあたりなんだよね」
彼は、スマホに話しかけながら、ゆるい坂道をのぼってきたところである。
「このビルの先だったような気が……ああ、あったあった。あれだぁ」
はしゃいだ声でつぶやいて、立ち止まって腰を伸ばした。
電話の相手は大和デジタルワークスの二十八歳の若手社員、梅家林太郎である。彼はオフィスのモニター画面で地図を見ている。都内の地理に不得手で記憶が曖昧で、精神的にも肉体的にも危なっかしい子宝ロダンのためにGPSを使って位置情報を取得しているのである。林太郎から渡された小型のGPS装置が、ロダンのポケットに入っている。海渡医師からの指示で、ロダンがひとりで外出するときは、そうやって場所を確認することに決めてあるのだ。どうやら、ほんとうに不安がっているのは海渡医師よりも、妻の佳奈子であるらしいが。
「あと百メールくらいで小さなアパートみたいなのがたくさんあるようですけど、そこですかね?」
その声にうながされるように歩きはじめて、しばらくしてから子宝は目を見張った。
「ああ、ほんとに同じような建物が並んでる、うんうん、確かこの先だったんじゃないかなぁ」
二階建ての鉄筋コンクリートの集合住宅がいくつも並んでいる。彼が立っている場所からだと幾重にもアパートが重なっているよう見える。実際は全部で八棟の都営住宅が建っている。
「えっと、これが四号棟ってことは……」
見まわすロダンの視線の先は思いがけず緑が深い。歩道と建物の間に乱雑に並んでいる樹木がどれも大きいのだ。この八棟のアパートはずいぶんと昔からこの場所にあった。そういう時間の蓄積が建物の間にしっかりと感じられる。
「集合住宅、なんですかね」
「みたいだね」
「覚えてます?」
「うーん、自信ないけど、覚えてる気がしてるんだよねぇ。すごいよね、ぼくってさ」
笑うでもなくそう言って、ロダンは足を止めて、きちんと頭をさげた。
「あとはひとりで、なんとかなると思うから」
「気をつけてくださいよ」
林太郎の声はひどく弱々しい。そんなふうな声を出されて、聞いている子宝のほうが泣きそうな表情になった。
「大丈夫だよ、心配しないで」
「でも、これまでみたいに都心のホテルってわけじゃないところが、ちょっと心配です」
林太郎は、いまや、子宝ロダンのブログを継続するための大切なパートナーになっている。取材に行って写真を撮り文章を書くのはロダンだが、それ以外の作業はほぼ林太郎がやってくれている。たとえばパーティや撮影会を企画している取材先とのアポイントや場所の確認、スケジュール調整、そして、原稿や写真を実際にサイトにアップすること……逆に言えば、現場の取材以外、子宝ロダンはなにもしていないということだ。人間関係にしろデジタル技術にしろ、記憶が曖昧で頼りないロダンでは、林太郎がいないとなにも進まない。
それほど熱心に協力してくれる理由は、林太郎が勤める大和デジタルサービスの社長と海渡医師が大学時代の友人という理由もあるが、林太郎自身がロダンのことを悪く思っていないということも大きいかもしれない。
「えーと、名前の確認なんだけどさ……横路さんで間違いないよね」
と、スマホにしゃべりかけながら、ロダンは歩いている。
「ええ、ブログに登場するのは横路伊久男ですね。ヨコミチ・イクオ……ふざけた名前ですよ。当然、本名じゃないんでしょうけど」
「だろうねぇ」
「どんなひとか、覚えてます?」
「いやぁ、それがわかんないんだよ。でも、見たら思い出すような気がする」
スマホを右手に握りしめて耳に押し当てたまま、子宝ロダンは前をにらむようにした。
明るい灰色のシャツに黒のブルゾンを羽織り、チノパンを履いている。いつものように地味で無個性な服装だ。
「頼りないなぁ。いつものことですけど」
スマホの小さなスピーカーのなかで林太郎が笑う。
「でも、ロダンさんは、親しかったわけですよね」
「そうなの? そうなんだよね……そういう気がするんだよ」
「頼りないなぁ。いつものことだけど……」
またそういうふうに笑ってから、林太郎は息をとめるように黙った。
「どうしたの?」
と、ロダンが訊く。
「ロダンさんの位置情報はモニターしてますから、場所を移動したらわかります。そのときは、こちらからも連絡しますから」
電話の向こうで、林太郎の声は意識的なのか力強く響いた。
「うん、わかった。ありがとうね。じゃあ、行ってくる」
子宝ロダンはスマホをポケットにしまうと、そっと横にすべるようにして小道に出た。
二号棟のいちばん奥。二号棟一○五号室。
頑丈そうな鉄の扉の横に、小さな白い突起があり、それが呼び鈴のスイッチらしい。
指で押すとドアの向こうでピ〜ンと大きな音が鳴り、離すとポ〜ンと響いた。
もう一度、ロダンは同じ動作を繰り返す。
ドアの向こうで、ひとの気配がした。
いつものように圭介が店の前で自転車を止めていると母の優子が出てきた。
「おや、どうしたの」
と、まるで偶然そこで居合わせたような言いかたを、優子はした。
「どうしたって、なにがさ」
ワイヤーロックを引っ張りながら圭介は苦笑する。母親は、そんな圭介を見おろすようにしている。
「喧嘩してるんじゃないかと思ってたんだけどね」
「美由紀とかい? あいつ、なんか言ってる?」
圭介は背中を丸めるようにして自転車にロックをすると、店のなかに入ろうとした。すると、優子もついてくる。
「私も話してないんだよ」
母親なりに心配していることがあるのだろう。
「また機嫌、悪そう?」
圭介は心に広がる不安をつつくような声で陽子に訊いた。女同士いろいろと話すことがあるかもしれない。そこで自分に対する美由紀の本音が出るだろうと、そんな期待がないでもなかった。
「そんなの私が知るわけないだろ。自分で話してみなよ、二階にいるみたいだからさ。妊娠中は、ただでさえ不安定なんだから、あんたがフォローしてやんなきゃ」
それが言いたくて店の前で待っていたのかもしれないと思った。たぶんそうなのだろう。
ちゃんと話せと言われても、話すチャンスもないのだから仕方ない。なにやら物思いにふけって考えこんでいる美由紀を、どうすればいいのか。
いっそのこと、と、圭介は思った。
美由紀とふたりで子宝ロダンのところに行ってみようか。
それは悪くない気がしている。子宝ロダンに写真を見せたらとんでもない展開になったという話は、おととい話した。子宝ロダンがもしかすると美由紀と会ったことがあるかもしれないという話には興味を示した様子だった。
美由紀はベッドに腰をおろしていた。
圭介が子どものときからずっと使っていたベッドだ。息子がいつ帰ってきてもいいように、そのままの状態で保たれている、そんな、老いた母親の気持ちが伝わってくる部屋だった。
美由紀にとって、なんのリアリティもない。まるでホームステイで訪れた家の、使っていない部屋に入ってきた感じしか、しない。
これがもし、夫の征雄の実家の部屋だったらもう少し感慨はあるかもしれないと思う。七年間、夫婦だったのだ。征雄は夫だという肌触りが、美由紀の全身に垢のようにこびりついている。
おととい、圭介から子宝ロダンという男の話を聞いた。また池上線のどこかまで行ってきたという。
わざわざきみのために買ってきたのだと、ありがたそうに青いビー玉をくれた。美由紀は、圭介がいなくなると、すぐにこの部屋の窓から外に捨てた。となりの豆腐屋の庭に落ちて、見えなくなった。
圭介は、前の週も子宝ロダンの家に行ってビー玉を買ったのだ。そのビー玉が、寝ているときに下着のなかから出てきた気がした。ほんとうのところは、圭介のいたずらか、それともたまたまシーツのうえに落としたかしたのだろう。
圭介はずいぶんと不思議なことのように話すが、そんなのはすべて思い違いに決まっているのだ。
子宝ロダンという名前からして、いかがわしい。
そんな男のなにを信じているのか、美由紀にはさっぱりわからない。
その男に圭介は美由紀の写真を見せたという。このひとと会ったことがあると、なにやら精神科の医師夫人まで出てきて大騒ぎだったらしい。
あげくのはてに、子宝ロダンは重度の記憶障害なのだという。
馬鹿馬鹿しい。
征雄との離婚やおなかの子どものことなど、問題は山積みなのに、いったい圭介はなにをやっているのだと腹が立つ。大切なことを正面から見据えようとしないで、占い師のような人間に頼っているとしか考えられない。
それが圭介という男の本性であり、限界かもしれないと思う。
深いため息が出た。
こうやって髪を短くしていたのは、確か、五年ほど前のことだ。征雄と仲がよかったころだ。
よくふたりで旅行をした。
結婚して二年、そろそろ子どもも欲しいと言い合いながら、あちこちに泊まりがけの旅行をしては暮らしていた。
なにもかもが、うまくいっていた。
そのことを思い出す。
それが、わずか一年前に、決定的な出来事をもって亀裂が入った。
圭介の出現だ。
最初から強引で、それなのになぜか圧倒的な魅力で、圭介は自分の心を奪っていった。そのことに驚きもしていたが、むしろ快感でもあった。自分の心をこれほど鷲づかみにし、あれほど仲のよかった夫との結婚生活を忘れさせてしまう男がこの世にいたことが、爽快ですらあった。
しかし、すべては夫の仕組んだことだった。夫が、他人に自分を誘惑させて、なにをどう楽しむつもりだったのか、美由紀にはいまだに理解できない。
もちろん、夫との関係は崩壊した。夫婦関係は終わってしまったのだ。
なのに、きょうになって、男の実家のベッドに腰かけながら頭に浮かんでくるのは、夫との楽しい日々のことだ。
いまと同じように髪を短くしていたころを思い出して、ふいに夫との日々が頭に浮かんだ。
不思議な感覚だった。
愛されていた自分。子どもを欲しがっていた夫。その夫よりもっと強烈な愛情で向かってきた圭介。自分を妊娠させた圭介。
いまは、離婚するはずの夫が、このおなかの子どもを欲しがっている。
不思議と、憎悪は浮かんでこない。
誰のことも恨んではいない。
美由紀には、わかっている。ずっと前からわかっているのだ。自分がやるべきことは、このおなかの子を堕ろし、夫と正式に離婚し、圭介とも別れ、ひとりで暮らすことだ。
ひとりで生きていくべきなのだ。
「私は、奴隷ではない」
と、美由紀は思う。
いまの自分が置かれた場所から抜け出して、妊娠なんてイベントからも解き放たれて自由になるべきなのだ。
美由紀は、立ちあがって、せまい部屋のなかを歩きまわった。
私は奴隷ではない。
圭介の部屋のなかで、美由紀はそれを痛烈に思っている。
夫は自分の愛をもてあそんだ。圭介といっしょに。
圭介に感じた魅力のほとんどすべては、夫が背後にいて演出していたのだ。あの熱っぽい興奮も、まるで自分のために存在するかのような話題のすべても、細かい気配りもささやきも、すべて——。
仕組まれていた。
年若い少女のように昂ぶり、それをおさえることに必死になっていた自分。甘くとろけるような恋。それがすべて、夫と圭介の策略だった。
そんなことが許されていいはずはない。
けれど、その策略の大きな前提は、自分への奇妙な愛情であったことも、また、いまはわかってはいる。理解はしないが、知っている。
同じように、圭介の気持ちが、夫の計画をこえて、どんどん大きくなったこともまた肌で感じることができる。
あの日から、もう半年がたっているのだ。すべてを知った瞬間、逃げ出せたはずなのに、美由紀はどこにも行かなかった。男たちのいいわけに身もだえながら、自分の弱さを思い知ったということだ。
愛されていたという実感がないわけではない。
それらすべての複雑さの象徴のような生命が胎内に宿っている。
だから、自分は、逃げ出したいのだ。
「きみからも……」
美由紀は小さくつぶやいて腹を撫でた。
(でも……)
と、思う。
逃げ出した先に、なにもないこともまた、美由紀を深く不安にさせる。
実は、あの夜、ビー玉が出てきたとき、奇妙な思いが頭に浮かんだ。
(私には、この子がいる)
という感覚だ。
夫との関係や圭介のことはまるでフィクションのようにしか考えられないのに、このおなかの子どもだけは、ひどくリアルだった。
ひとりで生きていく自信なんて、まったくない。そのうえ子どもを育てるなんて、考えただけで心が閉じてしまいそうになる。
けれど、真っ白で純粋な生命が自分のなかで成長しているという事実は、誰のものでもない、自分だけのものだという実感があるのだ。
妊娠するというのは、やけに大変なことだ。それは、はっきりしている。リアルなのは、その痛みの予感かもしれないと美由紀は思った。
みしみしと階段が鳴るのは確か、高校生のころからだと、ふいに圭介は思い出した。なぜそんなことに確信があるのか、よくわからない。が、とにかく、階段がきしむのは、高校生のときからだなのだ。
圭介は、部屋の前に立ち小さくドアをノックした。
返事はないが、そのまま静かにドアを押す。
美由紀は、ベッドの前に立って、こちらを見ていた。
「ごめん、ちょっと入っていいかな……」
遠慮がちに言う圭介に、美由紀は笑いもせずにうなずく。
「いやぁ」
と、わざと明るい声を出す。なにを言うつもりではなかったが、ふたりでいろいろと話してみることが大切だ、と、母も言った。
「ちょっと、話そうと思ってさ」
「うん」
小さく言って、美由紀はベッドに腰をおろした。その足もとを見て、圭介は声をあげた。
「おっと、こんなものが……あぶないね」
美由紀は気づかなかったが、ベッドの下から金属の板のようなものが覗いている。黒い円盤だ。
「なに、それ」
美由紀はベッドにうしろ手をついて足を浮かせた。
「ウエイトだ。これは……」
言いながら、圭介はその円盤をひっぱり出す。ダンベル用のウエイトだった。
「おお、なつかしい」
はしゃいだ声をあげて、圭介はベッドのしたを覗きこんでいる。違うサイズの円盤がいくつも出てきた。
「なに、それ」
と、また美由紀は訊いた。
「ダンベルだよ。知らない? これをこうやって」
シャフトにウエイトを装着してダンベルを完成させると、床に座ったまま胸の前で持った。
「イチ、ニ、サン、シ」
などと声をあげて、腕をしぼって上下させる。
「なつかしいなぁ。高校のときに、やってたんだ。きっと押し入れの奥にもっとでかいバーベルもあるぜ」
「マッチョに憧れてたわけ?」
「うーん、憧れてたっていうか……高校に入ったとたん親父が死んで、なんだろう、おれがしっかりしなきゃって思ったんだな、きっと」
もう三回ほど上下させて、だめだぁと悲鳴のような声をあげ、圭介はダンベルを床に置いた。ダンベルはそのままカーペットを敷いていない木の床をごろごろと転がった。
「あ、そうかぁ」
圭介はまた明るい声を出した。
「いまわかった。高校のときから階段がみしみし鳴りだしたんだけど、きっとバーベルとかダンベルとかをいっぱいこの部屋に入れたからだな。そうだ、それそれ。いまようやくわかった。きっとこの家、重みのせいでゆがんでるんだ」
高校生に戻ってしまったような表情を浮かべている圭介を眺めて、美由紀は黙っている。
「ダンベルだけでもマンションに持っていくかな。からだ、鍛えないといけないしね」
遠慮がちに、圭介は美由紀を見た。
「子ども、できるんだし」
美由紀の表情を読むようにして、圭介はそうつけ加えた。
「あのさ……」
息づかいの切れ目に、美由紀は小さく声をあげる。
「私、考えたの」
自分に言い聞かせるような感じだった。
「私、やっぱり、この子を産む」
それは数日前にも圭介は聞いた。子宝ロダンの家に行った朝だ。そのときは、産むっていうのもありかなぁという言いかただったが、いまのは宣言だ。
「うん」
美由紀の決意とおなかの子どもの両方を受け入れるようなつもりで、圭介はうなずいた。
「離婚はする、ぜったい」
やわらかいがくっきりとした声で、美由紀は言った。そして、そのまま圭介を見た。
「圭介とも、結婚、しない」
とても大切なことのように、言葉を区切った。
美由紀の視線にたじろいでから、圭介は肩をすくめる。
「どうして?」
「いろいろ考えたんだけど、私、いろんなことから逃げてたような気がするんだ」
どこかの棚にきちんと整理しておいた言葉を、ひとつずつ取り出して口にしているような言いかただった。
「旦那のことからも、あなたからも、逃げてた。この赤ちゃんのことからも。それで、ちゃんと考えてみた……逃げないで、ちゃんと」
圭介は、なにかの映画のあらすじを聞いているような気持ちになった。自分とは無関係な、遠いエピソード。
「ちゃんとしないと、いけないって」
それはいいことだと、圭介はふつうに思った。自分の人生について考えるのはいいことだ。
「それで、決めたわけ?」
言いながら、ほんのりとだけ微笑を浮かべることができた。圭介はそういう自分に少し安心した。
「うん、決めた」
「赤ちゃん産んで、離婚もするって?」
「そう……」
「旦那は、納得するかな」
「そんなの関係ない。納得させる。あのひとの子どもじゃないんだから。私だってもう、あいつと暮らすつもりなんて、ないし」
「うん」
「そして」
と、また、美由紀は言って目もとの力を入れた。
「あなたとも、別れる」
いつになく視線が動かない。じっと圭介の鼻先を見つめたまま、美由紀は動じない。
「そうか……」
あえぐように、言葉が途中で止まる。
なにをどういうふうに言えばいいのか、圭介にはわからなかった。とにかく、いま彼女が表明した決意のようなものに、自分はコメントするべきなのか? それさえもわからない。
「離婚もして、あなたとも別れて、しかも赤ちゃん抱えてどうやって暮らしていくんだって……そういうことを考えると気持ちがすくみそうになるんだけど……でも、私、決めたのよ」
「…………」
実は、圭介に言うべき言葉があるわけはないのだった。
「決めたら、いきなり勇気が出てきたの」
美由紀の笑顔は、あっさりとしていた。
「この子を、産むの」
彼女は、もう一度、笑った。
さっぱりと言いきって、いくぶん彼女は気持ちが楽になったように見えた。
「ぼくは、いいんだよ」
と、ようやく、圭介は言った。
「その子が、旦那の子でも」
「…………」
「どっちでもいいんだ……でも、ぼくが育てたい。自分の子どもとして精一杯育てたい。とにかく、そこからはじまる気がするんだ。家族って……」
ようやくそう言うと、圭介はダンベルをひき寄せる。
「それって」
美由紀は笑うでもなく、静かに圭介を見た。
「旦那といっしょだね、言ってることが」
と、小さく首をかしげた。
「どっちにしても、まぁ、出産まではここに置いてね。迷惑かもしれないけど」
ベッドに座ってそんなことを言う彼女を、圭介は泣きそうな顔で見上げた。
〈8〉
横路伊久男は、ほんの二十秒ほど前にリビングのカーペットを見つめ、思わずしゃがみこんでしまっていた。
ビー玉が落ちている。
それはまるで、ついさっき、本棚のどこかから転がり落ちたようにそこに現れたのだ。
けれど本棚から落ちたのではない。現れたとしか言いようがない。
その瞬間、ドアチャイムが鳴った。
反射的にビー玉を手のひらでおさえた。
もう一度、チャイムが鳴る。
横路は太ったからだを揺するようにして立ちあがった。
鼓動が激しくなっていた。ぶっくりとまるいひたいに汗が浮かんでいる。
ふだんの来客ならぜったいにそんな迂闊なことはしないだろうが、そのときは動転していた。ドアチェーンもせずにドアノブを握り、押した。
「誰?」
と言う前に、ドアの向こうに男の顔が見えた。
「こんにちは、子宝ロダンです」
男は静かな声でそう言った。笑っている。
「…………」
横路は思わず右腕を伸ばしたままドアノブに体重をかけていた。押すのか、引くのか。自分でもどうするのかわからないまま、一瞬の間がすぎた。
「やあ」
横路には、それしか言う言葉が浮かばなかった。
「横路さん、ですか?」
男は、そう訊いた。
横路はうなずいた。自分が驚いているのか、拒否しているのか、それとも喜んでいるのか、よくわからなかった。そういう感情の揺らぎをおさえるには、とにかく観念するしかないと悟った。
それでも、ささやかな抵抗のように、いつものように玄関スペースのカーテンをうしろ手に引いてみた。
都営アパートの小さな玄関が濃紺の分厚いカーテンによって仕切られると、そこには一メール四方くらいの空間ができあがる。
「いらっしゃい」
横路は壁に備えつけられている板を倒した。ふたりの間に小さなテーブルができた。立てかけてある折りたたみの椅子を、器用に開いて腰を落とした。
目の前の男は、無表情にそれを見ている。
「どうぞ」
横路伊久男は、彼の背後を手で示しながらそう言った。
ロダンが振り向くと、いま横路が腰かけているのと同じようなパイプ製の折りたたみ椅子が置かれていた。どうやら、それに座れということらしい。
子宝ロダンは、椅子をひきあげて、開いた。
黙ってそこに座った。
小さなテーブルをはさんで、せまい空間に子宝ロダンと横路と向かい合うことになる。
「こんにちは」
と、横路が言った。
「こんにちは」
ロダンも言った。さして意味のなさそうな微笑を、ほんのりと鼻のあたりに浮かべている。
ふたりは、黙ったままだったが、やがて、そういう沈黙に慣れていないという顔をして、横路が口を開いた。
「ひさしぶり、ですな」
それを聞いて、子宝ロダンは横路の鼻のあたりを見つめたまま動かなくなった。
ひさしぶりということは、やはり、横路伊久男と以前会ったことがあるのだ。だが、いっこうに記憶がない。やっぱり、と、ロダンは思った。ロダンは目の前の男を凝視するしかなかった。息も止めて、動かず、この男が誰か、どこかで会ったことがないか記憶を探ってみた。それはいつもと同じように、ひどく疲れる作業だった。
脳のなかの記憶の領域に意識を集中するのは、得意ではない。
狭い空間に、横路の巨体から漏れる息の音だけが響いている。
「どうやら」
と、先に口を開いたのは横路だった。
「私のこと、覚えてない、みたいな顔つきですが……」
言いながら、彼は困ったような目つきになった。
「そうなんですよ。どこかで……お会いしましたっけ?」
あくまで気楽な感じで、ロダンは表情をゆるめた。相手から先にいつどこで会ったのか話してくれるなら、それにこしたことはない。
「ははん」
横路の巨体が小さな椅子のうえで、揺れている。
実に長い間、そうやって揺れて、いいかげんロダンがなにか言いかけたときにようやく口を開いた。
「……ということは、子宝ロダンが記憶喪失になったってウワサは、ほんとうだったんですね」
と、まっすぐにロダンを見る。
「そんなウワサがあるんですか」
ほんとうに驚いたような顔でロダンが言う。
「ありますね。子宝ロダンは有名人ですから」
有名人だからという理由ではなく、横路伊久男は、子宝ロダンを個人的に知っていた。
記憶を失う直前の子宝ロダンのことを知っている。横路伊久男は、子宝ロダンが記憶を失うことにおいて重要な役目を果たしたかもしれない、と、自分ではずっと思っていた。記憶がなくなったあと、子宝ロダンがどこでどうしているのかは知らなかったが、いつの間にかブログを再開したことには注目していた。
子宝ロダンと最後に会ったのはは四年前だ。そのころは、いまよりもう少しふっくらしていたし、もっと活気にあふれていたような気もする。
いまみたいに地味な感じではなかった。
この四年間の生活が、彼をおだやかで消極的な雰囲気にしてしまったのかもしれない。
それもまた、大切なことなのだろうと思う。
「そうですかぁ」
目の前の子宝ロダンを見ていると、思わずそういうふうな声が漏れる。感嘆せずにいられないのである。
子宝ロダンが自分のところにやってきた。
しかも、彼はなにひとつ思い出していないようだ。
「なんで、来たんですか」
横路は心が動くままに、そう訊いた。
「なんで?」
ロダンは首をかしげる。その顔に、横路はやさしく微笑みかけた。
「電車で、なんて言わないでくださいよ。どうして……つまり、どういう事情があってここに来たんですか。記憶がないってことは、ロダンさんは、見ず知らずの人間のところに来たってことですけど」
「ああ、そうですね」
ロダンは、ほんのかすかにためらったあと、静かにうなずいた。
「なぜ、ここに来たか?」
「ええ……」
横路のほんの数十センチ先で、ロダンは、深く考えることに疲れたような顔になって、うっすらと笑みを浮かべた。
「なんとなく、ですかね」
「は?」
横路は丸い顔をふくらませるようにして、しばらく軽く口をあけたままになった。そして、ゆっくりとため息をつくように言った。
「なんとなく?」
「いや、ぼんやりとね、横路さんのことを思い出したんですよ。ぼくがなにかを思い出すなんて、ほんと、実に珍しいことで……思い出したって言っても、横路さんって人がいたなぁくらいのもんですけど」
ロダンが照れたように笑うのを見て、横路の大きな顔のなかに両目が沈みこんだ。苦笑したのである。はぁなるほど、と、横路はくちびるのはしっこでつぶやいたが、それは子宝ロダンには聞こえないようだった。
「ほんとですよ」
ロダンは、もう一度、すがるように言った。
さっきから横路のからだか何倍にも大きくなったような気がしている。小さなテーブルをはさんで、まるで巨体がこちらに迫ってきて埋もれてしまいそうだった。
「あの、ひとつ、うかがっていもいいですか」
あえぐようにそう言うと、ロダンはあごをあげる。
横路の巨体はまったく動かない。ふごふごという息の音がするだけだ。
「あの、この……」
と、ロダンは声を裏返しながら、横路の背後と左右をぐるりと見て、そして、ふわふわと視線を戻した。
「このカーテンは、やっぱり、重要な意味がある、わけですかね」
横路の背後を取り囲むカーテンは深い紺色で重々しく、まるで占いの館みたいな雰囲気なのだ。
「うは、うは」
巨大な肉が爆発するように、唐突に横路は大声をあげた。
どうやら笑ったようだ。
「圧迫感、ありますか」
楽しそうに横路が言う。
「ええ、まぁ」
「うはは、それは失礼」
ゆっくりと腕をあげて、横路は背後のカーテンをうしろ手につかむと大きく広げた。
「いや、なに、ふだんはここが受けつけであり窓口なもんですからね。でもまぁ、子宝ロダンさんがいらっしゃったんだ、こんなところでおしゃべりしてる場合でもないですなあ」
ぱんぱん、と、威勢のいい音を立てて横路はテーブルを跳ねあげ、椅子を右足で器用に蹴りあげて、たたんだ。
「さ、奥へどうぞ」
ロダンは両手で丁寧に椅子をかたづけてから、靴を脱いでなかに入っていった。
二メートルほど進み、横路の巨体が消えて、ふいに視界が開けた。
子宝ロダンは、そこで息を飲んだ。
どこかべつの世界にまぎれこんだような気がした。
巨大な緑色の葉っぱが、天井を覆っている。およそ十畳ほどの広さのリビングルームが実にさまざまな観葉植物で埋めつくされている、ということに気づくのに数秒かかった。
そこはまるで熱帯植物園、だった。
ロダンはその場に立ったまま、からだを硬直させている。
「さ、どうぞ、せまいところですけど」
横路は、すでに部屋の奥でひとりがけのソファに座って、やわらかい微笑を浮かべている。彼のまわりには寄りそうように大きな葉っぱが取り囲んでいて、まるで絵本に出てくる王様のように見えた。ロダンは、ぼんやりとあたりを見まわすと、
「これは……まるで王国ですねえ」
と、ため息のように言った。
すると、横路はとてもうれしそうな声をあげた。
「いやあ、さすがに子宝ロダン、いきなり核心をつきますなあ」
巨体がソファのうえでゆっくりと揺れている。それにあわせて、部屋のなかの葉がどれも静かに息づいている。
「そうなんです。ここは私の王国です。ここで私、日々の疲れを癒しておるわけですなあ」
上機嫌に笑う横路を見てから、ロダンは窓の外に目をやった。明るい陽射しのなかに、部屋と同じように熱帯性の樹木が生い茂っている。部屋と庭が連続して熱帯性の植物園なのだ。
「ぼくは詳しくないんですけど、こういうのを世話するのは、なかなか大変なんでしょう?」
と、ロダンは訊いた。
「そんなこともないです。最近はほら、温暖化ですか、東京もずいぶん温かくなったんでね」
横路は言いながら、窓と向き合っている壁を手で示した。そこに木製の大きな椅子が置いてある。そこに座れという意味なのだろう。
「ほとんど、ほったらかしですよ。とは言え、そこに座って葉っぱを眺めたりしてるうちに、ちょいと気になってワックスで磨いたりして、ついつい手をかけてはおりますが」
そう言ったあとで、横路は、わはわはと大声で笑う。
椅子に浅く腰かけて、子宝ロダンは両手をひざにのせた。
横路の座っているソファとロダンの座る椅子、あとは部屋のすみに背の高い本棚がひとつ置いてあるほかは家具はなにもない。
直径が五十センチほどある鉢が、ほとんどの床面を埋めている。
ロダンの座っている位置から見ると、熱帯の森が庭に向かって広がっていくように見える。
「確かに、落ち着きますね」
ロダンはそう言って、やわらかく笑った。
「そうですそうです」
と、満足そうに横路も笑う。目が顔のなかに埋もれしまって皺のように見えた。
「ところで、その……」
横路は丸い笑顔のままで庭に目をやった。
「ご用件はなんですかね」
熱帯の植物に聞かせているような声だった。ざらついた警戒心が声に現れている。
「いやぁ、そう言われても……ただ、ほんとに、なんとなく……思い出したんです」
「なんとなく?」
横路は、笑顔のままだ。
ロダンは、そんな横路の丸顔におだやかな微笑をなげた。
「逆に、なにか、心当たり、ありませんかね」
「心当たり?」
「ええ、だから、ぼくが横路さんに会いにくる、心当たり……」
ロダンはそうつぷやいて、横路から視線をはずし、部屋のすみの本棚を見ていた。それからしばらくして庭に目をやり、ふたたび本棚に視線を戻した。
「そう、心当たり……」
と、かすれた声でロダンは、また言った。本棚を見つめながら、強く奥歯を噛みしめるようにして両肩に力を入れた。それからすぐに、全身の力を一気に抜く。そんなロダンを、横路は静かな視線で見ている。
「ありますよ」
と、横路伊久男がふいに言った。
「へ?」
「心当たり、あります」
横路は笑顔を消して、ロダンを見ていた。
「あるんですか」
「ありますね」
「なんですか、それ」
「ビー玉、ですね」
「ビー玉」
「そう。ビー玉。これ……ほら」
彼は小さく言って、握りしめた右手を前に突き出した。そのままくちびるをゆがめてから、手首をひねり、手をうえに向けて開いた。
手のひらにビー玉がのっている。
ロダンは静かに、それを見ている。
「四年前、あなたがくれたんです。手放しの玉、でしたっけ?」
「…………」
「一度目はすぐに出てきた。まずは、あなたに言われたとおりコンビニのゴミ箱に捨てたんです。そしたら、あの震災のとき、ものすごく揺れて本棚のものがずいぶんと落ちた。本とか、CDとかいろいろ……そしたら、そういうものにまぎれてカーペットに、これが落ちてた」
その話をなつかしんでいるように横路は淡く微笑んでいる。
「震災のあと、私は仕事で仙台に行ったんです。とにかく大混乱でした。すべてが。都からも応援に行きました。仙台の市役所に行って、それから気仙沼にも行った。すごかった。なぁんにもなかった。でね、私、そのときに、このビー玉をまた捨てたんです。津波でやられちまって瓦礫しかないところに、これを捨てた……ぽんと」
伸ばした手のうえにのっているビー玉に吸い寄せられるように、横路の上半身が前のめりになっている。
ロダンはなにも言わず、横路を見ていた。
「長い間、出てこなかった。そういうもんだって、あなたは言ってた。いちばん最初はすぐに出てくる。不思議に思う。それで二度目を試してみる。さらなる不思議を期待して。けれどそれは長い間、出てこない……」
横路はビー玉を握り、胸にあてた。それからゆっくりとソファにもたれた。巨体が沈んだ。
「そしたら、さっき……そこの窓のところにあるパキラをちょいと移動させようと思って鉢を持ったときに、見つけたんです……カーペットに落ちて転がってきたような……」
横路は、そこでかすかに笑った。その笑顔はしだいに顔全体に広がって、部屋の植物たちがゆらゆらと葉を揺らした。
「その直後にピンポンって鳴って、ドアを開けたら、あなたがいた……もう私、腰が抜けるかと思ったんだ」
「なるほど……」
かろうじて、ひとりごとのように、ロダンは言った。
このソファに沈みこんでいる大福餅みたいな男は、自分の過去を知っている。そのことに強い戸惑いを感じながらも、どこか安心できるような気もしていた。きっと、横路伊久男は、かなり深く自分のことを知っている。
そのことは理解はできても、ロダンには口にするべき言葉が思いつかない。記憶の領域に向かうのは、気が進まないのだ。
「縁、ですかね」
と、軽い思いつきのようにロダンは言って、ふわりと笑ってみた。
とにかく、どうにも苦手な、自分の記憶につながる曖昧なもののことを「縁」と名づけてしまうのは、いい方法だった。
「は?」
という顔つきのまま、横路伊久男は子宝ロダンの顔を見ている。
横路は太い腕を腹のうえで組んだ。体重のわりには小刻みな息に会わせて腕が上下している。
「そう。縁ですなあ」
しみじみと、横路は言った。
「時間はたくさんあります。今日に限らず、たくさん。ね、そうでしょう。久しぶりの再会ってやつです。うれしい話じゃありませんか」
とろけるように笑いながら、横路はロダンにやさしい声で言った。
「ロダンさん、まずはあなたのことを話してくださいよ。いやね、ブログは見てるんですよ。三年ほど前からですかね、ブログをまたやりはじめたのはね。それまでどうしてたんですか、どこでどういう生活を送ってたのか……いや、もちろんいまもどんな生活をしてるのか私はまったく知らないわけだから」
その口調は、落ち着いて、やわらかく響いた。
もしかすると、横路の声が、どこか海渡医師に似ていたのかもしれない。気分はどうか? きのうの夜はよく眠れたか? 不安はないか? と、海渡はいつも訊いてくる。そういう声に導かれるように、ロダンは自分のことを話す。
気がつくと、横路に問われるまま、ロダンはこれまでのことをあっさりと話してしまっていた。四年前に海渡医師に救われたこと。そのまま海渡が住む家まで用意してくれたこと。ずっと主治医としての治療以上の親切を受けていること。ブログ再開にあたっても、海渡の大学時代の友人の会社にシステム的な支援を依頼していること。
「だから、ブログをまたやりはじめたっていっても、自分ではなにもやってないんですよ。全部、その林太郎って若い子におまかせで……」
横路は、ロダンの話すことすべてに、興味と関心を示している。その顔つきに導かれながら、ロダンはつぎつぎに言葉を探してしまう。
ロダンが、これまでの四年間の出来事をここまで一気に他人に話すのははじめてだった。自分の過去を話すためにここに来たのかもしれないと軽く興奮した。とにかく、気がつけば、夢中で話して、横路から発せられるつぎの質問を待っているのである。
ロダンは、横路伊久男の前で安心しきっていた。
「子高正一ですか」
と、戸籍上の名前について、横路は感心してみせた。
「奥さんがつけてくれたと?」
横地は、そこで、餅のような顔に沈みこんでいる目をいたずらっぽく輝かせた。
「そうなんですよ」
ロダンは微笑する。
その笑顔に誘われるように目を見開いたあと、横路は訊いた。
「小高正一が本名ということになるわけですね」
「戸籍上はね」
「あなたが子宝ロダンである自分を思い出したのは?」
「三年前です」
「それより前なんですよね、奥さんがあなたに名前をつけたのは?」
「そうですね」
「すると、奥さんは、まるであなたが子宝ロダンであることを知っていたみたいですなあ」
「…………」
ロダンは、そのことについて、考えてみないわけではなかった。「小高」と「子宝」の類似性は、どう考えても偶然だとは思えない。
「海渡先生はなにもかも知ってるんじゃないかと、ぼくは思ってるんですよ」
ロダンは、素直にそう言った。
「ぼくがいったいどこの誰でどんな生活をして、どんな男だったか、全部知ってるんじゃないかって。そうでないと説明がつかないですもんね、こんなに親切にしてくれるなんて」
記憶を失いながらも四年間生活してきて、口にはしないが自然にそういうふうに考えている。
「全部わかったうえで、ぼくを見守ってくれてるって気がしてるんです」
自分で言葉にすると、なぜか涙が出そうになった。海渡医師や佳奈子に対する感謝はいつも胸のなかに強く感じてはいるが、こうやって誰かに話すことはない。
言葉にすると、染みた。
「そうとしか考えられないんですよ」
そう言ってから、ロダンはしめっぽい微笑を浮かべた。
横路は背中をソファに沈めたまま、ロダンを見ている。
部屋のなかの観葉植物たちも、おだやかにふたりの会話を聞いているようだ。深い静けさが、部屋のなかに満ちた。
「それはたぶん」
と、横路がカーペットに息を吹きかけるみたいに声をあげた。
「違うと思うなあ」
「…………」
「海渡先生がすべてを知っているってことは、ないんじゃないですかね……そんな気がしますよ」
「どうして?」
「いや、気がするって話です。いいかげんな推察ですよ。ただ……」
と、横路はやわらかく言葉を切った。
「なんです?」
ロダンはすがるように横路を見る。
「海渡先生の親切ってことだけで、すべてを説明できるほど、あなたは……つまり、子宝ロダンは単純じゃない」
そういう言いかたを、横路はした。
ロダンは黙って横路を見た。
「これから、ですよ。すべては、これから」
「どういう意味ですか」
「わかりませんよ、そんなこと。でも、あなたはここに来た。ようやくはじまったんです。私にはわかる。だって、さっきビー玉が現れたんだから。あれを見た瞬間、私は心の底から、いやいや、この大きなからだ全体で、はっきりと自覚したんです」
なにを? と、ロダンが訊くのを待つように、横路は視線を向けた。
「なにを?」
吸いこまれるように、ロダンは訊ねた。
気取った感じで笑ってから、横路は強い口調で言った。
「世界が変わったってことを」
〈9〉
美由紀が、ひとりで生きていくと断言して、なにやらさっぱりとした顔つきになってしまったことで、圭介は自分の気持ちの持って行き場に困るしかなった。
彼女は、子どもは産むけれど征雄と離婚し、圭介とも結婚しないと言う。ひとりで育てるのだと決意しているようだ。それが現実的にはどういうことになるのか、圭介にはいまひとつ実感がない。
もちろん、美由紀と結婚することや、子どもを育てていくことに具体的なビジョンがあるわけでもない。美由紀とは昨年の暮れに出会ってからまだ九か月ほどしかたっていないのだ。熱に浮かされたように恋をして、結婚について話しあって、妊娠が判明して、まるで青春映画のように日々が過ぎた。
その間の美由紀の苛立ちや孤独について、圭介に理解できるはずもない。自分のことに精一杯というわけでもないが、とにかく、美由紀の抱えるたくさんの問題について細かく配慮することができない。しようにも、なにをどう考えていいのか、見当もつかないというのが正直な気持ちだった。
そういうふうに突きつめてしまうと、美由紀が自分から離れていきたい気持ちも理解できなくはないのだった。
こんな男といるより、自立して新しい人生を切り開くほうがいいかもしれないと思ってしまう。
「あなたとも、別れる」
まったく視線を動かすことなく、はっきりと圭介を見据えて言いきった美由紀の前で、圭介の心のかたすみに安堵のような感覚が芽生えたのも事実だ。
これで解放される、またひとりに戻れる。そんな感覚だった。誰にも束縛されず、誰にも責任を負わず、これから社会に出ていこうとしているスタイリストやデザイナーの卵たちと呑気に暮らしていくのは、やはり悪くない。
商店街のはずれにある小さな洋服店の跡継ぎ。そのあたりが自分にふさわしい役柄であり、そういう意味ではわりと真っ当にやってきた。
みしみしと鳴る階段をおりて、圭介は、店のほうにまわって靴をはいた。
明日は午後から若い女の子がふたりで打ち合せにやってくる。大村も来る。年末から年明けの企画でウェブクーポンのようなことをやってみたいと思っていた。そのためのミーティングだ。
「そんじゃ、おれ、部屋に戻るわ」
店のかたすみで小さくなっている母親に声をかけて、圭介は外に出た。自転車のロックをはずしているところに、声がかかった。
「もう行くのかい」
優子だった。
「ああ、行くよ。美由紀は大丈夫みたいだから」
「そう?」
「子ども、産むってさ」
それをいま母親に伝えることがどういう意味を持つのか、圭介にはよくわかっていない。ただ、孫を望んでいた母への、ちょっとした心づかいだったかもしれない。
「あ、そ」
優子は短く言って、ちらりと自転車のサドルのあたりを見て、すぐに圭介に視線を戻した。
「あんた、わかってるの?」
と、優子は鋭く言った。
「なに?」
突然の謎かけのような言葉に、圭介はまごつく。
「結婚、できるの?」
それはつまり、美由紀の離婚がきちんと成立するか心配しているのか、圭介に結婚の意思があるのかどうか問うているのか、よくわからない。
「うん、大丈夫」
とだけ言って、圭介は明るくうなずいた。
「それじゃ」
どういうわけかふいに胸に重さを感じながら、圭介はサドルにまたがった。そのまま地面を蹴って、店先から商店街に出ていく。
「…………」
背中で、押し黙る母親の気配を感じた。
なぜかわからないが、涙が出そうになった。
ひとりで胸に決意をかためて生きていこうとしている美由紀と、漠然とした不安を口にすらできない母親。ふたりを置いて、ひとりの部屋に逃げるように戻っていく。
だめだめちゃん、かもしれない。
と、圭介は、自分のことをそう思った。
「世界?」
子宝ロダンは怪訝な顔をしている。
「どういう意味ですか」
なんて呑気な質問をするこの記憶喪失の男は、たぶんまだなにもわかってはいない。なぜ記憶を失ったのかということも、それによって持ち得ることを期待されるちからも、そして、その意味も。
もちろん、横路もほんとうのところは知らない。ほんのささやかな、予感のようなものを感じているにすぎない。
「たとえば、ですけど」
と、その予感のせいで軽く自分は興奮いているかもしれないと思いつつ、横路は、ロダンのほうにからだを乗り出した。
「あれは、まだ、できますか」
「あれ?」
「そう、指先でビー玉をつまんで……」
そう言いながら、横路は指先でなにかをつまむようにして、自分の顔の前で真横にすっと動かした。
「こうするやつ……」
「指先で?」
ロダンは戸惑いながら、自分の指を見ている。
「ロダンさん、いま、ビー玉は持ってますよね」
「ええ、ありますよ」
当たり前のようにうなずいて、ポケットを探り、ビー玉をひとつ取りだす。
「それをですね、指先ではさんで……」
「はさんで……」
「こうやって、私の顔の前にかざして……」
「かざして」
ロダンは、横路に言われるまま、大きな顔の前にビー玉を差しだす。
「それをゆっくり、右から左に動かすんです」
ビー玉をつまんだロダンの右手が、静かに横路の顔の前を動く。
「こうですか?」
「そう……そのまま右から左に……止めちゃだめですよ」
「…………」
言われたとおり、指先でつまんだビー玉を、横路の大きな顔の右から左へ移動させていく。それを目で追いながら、横路は真剣な顔つきだ。額に汗が浮かんでいる。
「ロダンさん……」
「はい」
「真剣にやってます?」
「真剣? 真剣……なにを、真剣にやればいいですか」
ロダンは、ごくまじめな様子でそう言うしかない。横路が大きくうなずく。
「もう一回、お願いします」
「はい……」
ロダンは、同じ動作をはじめた。ゆっくりと、ビー玉を横路の顔を横切るように。
「うーん」
と、横路はうなった。
「もう一回」
「はい……」
何度か、そうやって同じ動作を繰り返す。横路の額の汗が流れるほどになっている。
「きっと、どうなるのかって、言葉にしちゃいけない気がするんですよね」
と、横路があえぐように言った。
「はい?」
「結果がわかっているんじゃだめなんですよ、きっと……そうそう、手放しの玉を渡すときも、ロダンさん、言うじゃないですか……あ、そう、わかりました」
横路は、くっきりと笑って、ビー玉の向こうから、汗っぽい目を見開いてロダンを見つめた。
「ロダンさん、こういうふうに念じてください。おもしろいことが起こる、って……おもしろいことが起こるんです。そう念じながら、もう一回、お願いします」
「おもしろいことが起こる……はい、いきますよ」
真剣な目でビー玉を見つめながら、指先を横路の前で移動させる。右から左に……。
横路の目の前で、指先につままれているビー玉が、消えた。
「そのまま……動かして」
横路にうながされて、指を横に移動させる。すると、また、ビー玉が現れた。
「すごい」
と、ロダンは声をあげた。
「すごい……手品、ですか」
「いやいや、ロダンさんがやったんですから」
「ぼくが? いや、ビー玉はずっとつまんでましたよ。横路さんが、なにかしたんでしょう」
「違いますって、全部、ロダンさんですよ」
「でも、消えましたよ。ほんとに」
「そう……それですよ」
横路は楽しそうに笑う。ソファに放り出すようにからだが沈めた。
「消えたけど、また現れた。ね、手放しの玉と同じでしょう?」
「…………」
呆けたように、ロダンは指先でつまんだビー玉を見ている。そして、横路を見た。なにか言うのではないかと思って期待しているようだが、横路は微笑を浮かべているだけだ。ロダンは、壁に頭をつけるようにして、またビー玉を見つめた。
横路は、そんなロダンを観察していた。四年前よりずっと若く見える。記憶といっしょに世俗の脂を流してしまったような顔つきだ。横路は、子宝ロダンが記憶をなくした原因や意味を、そのあたりだと想像している。もちろんひどく個人的で勝手な想像ではあるが。
「きっと……」
と、彼は、ロダンに笑顔を投げるようにした。ロダンも顔をあげた。
「もっといろんな、おもしろいことができるようになりますよ」
「…………」
ロダンはまたビー玉を見る。すぐに顔をあげ、横路に言った。
「ずっと前から、ぼく……こういうこと、してたんですか」
「ああ……あのころは……そう……手放しの玉はよく人に渡してました。あとは……指先のビー玉が消えるっていうのは、たぶん、そんなに大勢の人の前じゃなくて、実際に見たひとは少ないと思う。私だけ、くらい……」
「横路さん、だけ……」
ロダンは、かすかに首をかしげる。
「よっぽど、ぼく、横路さんと親しかったんですね」
「ふぉ」
と、ふくらむような顔つきで、のどの奥から声が出た。そして、大きく笑った。
「ふおっふおっ、そうなんです。親しかったんですよ」
「もしかして、この部屋にも、ぼく、来たことがあるんですよね」
確信めいた顔つきで、ロダンは横路を見て、本棚に視線を投げた。そしてもう一度、横路を見た。
「どんな話をしてたんですかね、そのころ」
ロダンはすがるような目をしている。その表情の意味をすくいあげるように、横路は深くうなずいてソファから上半身を浮かした。
「ロダンさんのことは、私、ずいぶん前からブログで知ってました。ファンだったんですよ。それもあって、あることを相談したんです。相談のメールを書いたら、すぐに返事がきて……」
「それで……ぼくたち、会った……」
「会いました、何度か……ロダンさん、ほんとに覚えてないんですか」
「覚えて、ないです」
ロダンはふつうに答えた。覚えているのかどうか、そこのところには頓着していない顔つきだった。そして、横路に訊いた。
「会うのは、ここで?」
「そうですね。ここで」
「何度か?」
「そう」
「どんな話をしてたんでしょう」
部屋のなかで揺れる観葉植物たちに語りかけるように、ロダンは訊く。
「どんな話?」
横路は視線をあげて、空中をにらむようにした。
「いろいろ話しましたよ。おもに女の話かなぁ。セックスの話、ってことですよね、やっぱりね……私、職場じゃぜったい口にしないような内容の……まぁ相手はロダンさんだから、そういうことになりますよね」
「確かに」
と、ロダンは軽く微笑んだ。
「それ以外、話すことはないですもんね」
あっさりとロダンはうなずいた。横路は苦笑して、首をふる。セックス以外の話題はない、と、言いきる子宝ロダンは、やはりおもしろい。
「それだけってことも、ないとは思うけど……」
横路は、あのころ、ふたりで話していたことのいくつかを思い出していた。
「横路さんの相談ごとは、どんなだったんですか」
「ああ、それは……もういいじゃないですか、それは。古い話ですし」
「なんですか?」
「いや、もう、その話はいいです。その当時の私の悩みごとなんて、そんな話はもう……」
横路は、いやがっているというより、照れたように笑う。
「それより、ロダンさんからも私に、相談があるって言いだしてね」
「相談?」
「覚えてませんか」
「覚えてないです」
「思い出さないほうがいいってことは、ない?」
「…………」
「よく言うじゃないですか。忘れてしまったのなら、無理に思い出さないほうがいいって……精神科の先生も、そういうこと言いません?」
「横路さんも、そう思います?」
ロダンのすがるような顔つきに、横路はかすかに巨体を揺するようにして笑った。
「いや、いいですよ。話しましょう。だって、子宝ロダンが、わざわざ、4年ぶりに現れて……きっと、大きな意味があることなんでしょう」
背筋を伸ばして座っているロダンの向かいで、横路のからだがふわりふわりと揺れた。それにあわせるように、部屋のなかの観葉植物たちがゆらりと、そよいだ。
「実は私……区の職員なんですよ」
と、ゆったりした波に乗りながら、横路は小さくつぶやく。
「クノショクイン?」
ロダンは首をかしげている。
「そうです。ふだんは新宿区役所の戸籍係におります。住んでいるところも、ここではなく、べつにありましてね。新宿に近いところ、山の線の向こうっかわ。ありふれたマンションなんですけど……」
と、横路は、少しだけ早口になって言った。
「この部屋は、こうやって、観葉植物を眺めながらくつろぐ場所というか。趣味の空間、思索のスペースみたいな……それと、もうひとつ、ちょっとした副業もやっていたり、ですかね」
怪訝な顔をしているロダンに、横路は苦笑を浮かべるしかなかった。
「戸籍関係のね、副業ですね。戸籍を売ったりとか……区役所の戸籍係だけに……はははは」
「コセキヲウル?」
と、ロダンは首をかしげたままだ。
横路は、ロダンと同じ方向に首をたおして、笑った。
「そんなに大きな稼ぎはなりませんがね、まぁ、戸籍がほしいひとっていうのは、世のなかには一定数おるんです。外国人とか、いろいろ、不動産関係、学校関係、商売、いろいろ、書きかえたり、売ったり、つくったり、ほんといろいろですがね」
「ぼく、そういうの、ちっともわからないんです」
「いや、そうでしょうそうでしょう。ロダンさんにわかるわけはない。前にこの話をしたときも、ロダンさん、そういう顔で、なにがなんだかさっぱりわかりませんって顔、してましたよ。わはははは」
「…………」
「商売をするときに……あの玄関のところのカーテンを閉めて、窓口にしておるわけです」
横路は、ソファのなかで揺れるのをやめて、ロダンの鼻のあたりを見た。
「そんな話をしてるときに、ロダンさん、こう言ったんですよ」
「…………」
「戸籍が消えるってことは、どういうことなのだろうか、と」
「…………」
「戸籍が消えると、存在は消えるのだろうか、とか」
「ぼくが? 横路さんに? そう訊いた?」
「そうなんです」
「それ……どういう意味なんですかね」
過去の話は、子宝ロダンにとって、ほとんどすべて、知らない世界の幻のように映っているのだろう。横路はそういうふうに想像してみた。
「さぁ、私にもさっぱりわからないんですが」
ゆらりと腹のあたりをまわしてから、横路は笑うでもなくロダンを見る。
「でも、ロダンさんは、結果的に……」
と、少し声をおとした。横路のからだは、ゆったりとふくらんだ。
「結果的に、ロダンさんは、そうなってるわけですよね」
「はい?」
「存在が消えて、記憶が消えて、戸籍も消えたんだから」
「…………」
子宝ロダンは、どういう表情をしていいのか迷っているような目で、横路伊久男の大きなからだを見つめた。
〈10〉
「横路さん……」
と、ロダンは改めて横路を見つめた。
いま横路が口にした言葉の意味は、ロダンにはうまく理解できなかった。記憶が消えて、戸籍が消えていることが、自分にどんな影響があるのか。そういうことに関する考察など、いまの自分にできるはずもないのだった。
考えても仕方ない話なのだと、自分に言い聞かせた。記憶にまつわる話はとにかく、得意ではない。それらすべてを「縁」と名づけてしまえば、心のどこかが安定する気もした。すべては、縁なのだ。
そう、縁の話だ。と、ロダンは思った。そろそろ、横路に問うてもいいのではないかという気がしていた。
ふたりはずっと同じ場所に座って会話を続けている。
ロダンは窓に向いて木の椅子に座り、横路はロダンの右側の壁でソファにからだを沈めている。
窓から入りこんでくる陽射しはずいぶんと弱いものになり、うっすら赤みを含みながら観葉植物の葉に輪郭を与えてはじめている。
「美由紀さん、ですよね。奥さん」
ひどく唐突に、ロダンがそう言った。条件反射のように、横路の目が、たっぷりとした頬の肉を割るようにして見開かれた。
子宝ロダンは、この部屋に入ってきたときに、本棚を見ていた。うえから二段めの棚に木製フレームの写真立てがあって、横路伊久男が女と並んで笑っている写真が一枚、飾られている。
本棚の写真立てのなかで、横路と並んで幸福そうな笑顔を浮かべているショートヘアの女——藤森圭介が携帯電話で撮影した美由紀に違いなかった。その彼女に語りかけるように、ロダンは、本棚に目をやったままだ。
「美由紀さんが妊娠して……」
ふつうの声で、ロダンはつぶやいた。
「…………」
横路はこの部屋のすべての空気を吸いこむような顔になっている。
「美由紀さんが妊娠しているのがわかったとたん、あなたは離婚したくないと言いだした。法的には自分が父親なのだから、自分が育てたい。美由紀さんにもいい母親として子どもを育てて欲しい。あなたはそう弁護士に話している」
詰問のような言葉を、ロダンはとてもやわらかい声で話す。きのう見たばかりのテレビドラマのあらすじをおだやかに口にしているだけのようだ。
ロダンは微笑さえ浮かべている。
横路がからだを揺らした。ふいに、大声をあげた。
「まいりましたッ」
声をあげながらソファからずり落ちた。どしりと床に座りこむ。
「まいった、すごい。ほんもの」
濡れたからだをふるわせる犬のように叫ぶと、泣きそうな顔でロダンを見上げる。ほんとうに、うっすらと涙を浮かべているのだ。
「ビー玉パワー? 超能力? いや、びっくり。ほんもの。そのとおり」
と、感慨深げにつぶやくのである。
「なんですか、それ……超能力って」
「なんですかって……それですよ。そうやってすべてを見通す力、神通力っていうの? それともなに、おれの心を読んでるの? すごすぎでしょ。私のカミさんの名前とか妊娠とか、どうやったってわかるもんじゃないよ」
「ああ……」
ロダンはため息のように笑うしかない。
「あのですね、私……藤森圭介さんに会ったんですよ」
ロダンは両膝をそろえて浅く腰かけている。
「それだけのことです。会って聞いたんです。わりと細かいところまで。誕生日にあなたが圭介さんに買わせた指輪の話とか……」
ちょっと横目で横路を見て、ロダンはかすかに笑う。
「あ、なに、そういうこと?」
ソファを抱くようにして横路は声をあげた。
「あ、そういうことか。美由紀に頼まれてきたわけ、ロダンさんが? えええ、なんで? なんで知ってんの? ああ、藤森圭介の友だち? え、そういうこと?」
大声をあげて、横路はからだをゆする。
「あいつの知り合いかあ」
「うーん、まあ、そういうことになりますかねぇ」
ロダンは低くうなった。
「知り合いというか、お客さん、ですよね」
その声は聞こえなかったのか、横路は、
「で……」
と、ぼってりとした上半身を床に沈めたまま、ぐるりとこちらを向いた。
「ロダンさんがあいつの知り合いって……それで、あなた、わざわざここに来た……ってことは、私、どうすればいいってことになるんですかね」
声も重く沈む。
すると、ロダンは一息ほど間を置いて、
「やせたほうがいいですよ」
と、笑いもしない。
横路も素直に、そうですね、と、つぶやく。
「わかりました。あなたに言われたら、やりますよ、ダイエット」
ぼってりとふとんのように広がった腹部を撫でる。
「昔はもっと、やせてたんだ」
横路はからだをひねって本棚に目をやった。そこには美由紀と写っている写真がある。確かに、美由紀を抱えるようにして寄りそっている横路は、いまよりずっとスリムだ。太っていないわけではないが、いまのようにふくれあがってはいない。
ロダンも横路の視線を追った。そして、弱くかすれた声をあげた。
「ぼく、横路さんのことも、ここに来たことがあるかどうかも、まったく覚えてないんです。ここに来たのは、ほんとに、なんとなくですよ。なんとなく来た。けど、あの写真には見覚えがあった……なぜかわかりません、あの女のひと、美由紀さん……あの写真は覚えていたんです」
その声にひき寄せられるように姿勢を戻す横路は、それだけであえぐように深い息をくりかえした。
「そうなのかぁ、あの写真をねぇ……やっぱり、なにかの縁ってこと? なに? 偶然、それとも、誰かの意思?」
混乱しながらも横路はなにかを理解しようと懸命だった。大量の汗がひたいと首のまわりにまとわりついた。
「ジャンルで言うと、寝取られ系、ですよね、横路さんって」
そちらのほうが大切なことのように、ロダンはおだやかに言うのだった。
横路はソファに肘をついて体重をのせると、よっこらしょと声をあげて、大きなからだをソファに持ちあげた。ひどく時間をかけてソファに座り直すと、しばらく荒い息を繰り返す。
「わかりました」
と、照れたような表情を浮かべてから、横路伊久男はロダンを見た。
「いいですよ、話しましょう。セックスのこと……結局、そういう話になっちゃうんだなぁ。子宝ロダンだけに……はは、なぁんか、おかしいや」
ぶほっと咳払いをしてから、横路は窓に目をやる。
庭の樹木の輪郭が靄のように消えかかっている。
「ロダンさんなら……」
横路は、暗くなってしまった庭を見つめたまま言った。
「ロダンさんならよくご存知のはずだ。まさに、それ、寝取られです」
「ええ」
「かみさんがほかの男とやると、どうなるか……そういうことを妄想しちまったんですなぁ。いやね、あのころ、ロダンさんに会った相談っていうのも……実はそれで……」
「…………」
「でも、結局、あのときは、いまひとつ気持ちがついていかなかった。勇気がなかった、っていうんでもないなぁ……なんだろ、カミさんとべたべたと仲よかったしね……ロダンさんに会って相談したら、どういうわけか、そういう気持ちが薄れたんだよね。ビー玉もらったりもしたし……」
と、横路の腹のあたりが、ふくらんだりしぼんだりした。
「そう……」
と、子宝ロダンは息をついだ。
「はじめは、あくまで妄想、なんですよねぇ」
どちらかの声に、どちらの顔もうまく重なる。
「で……今回は、妄想が現実になりかけた。結局のところ、藤森圭介の、どこがよかったんですかね」
ロダンは、ほんとうに知りたそうな顔をした。
藤森圭介の……と、横路も頭の裏側を探るような目をする。
「どこがよかったか……」
横路は、わずかにくちもとをひきしめた。
「きっと美由紀なら、こういう男が好きなんだろうなぁっていう、想像かな。ちょっと軟派そうなんだけど、わりとまじめ、みたいな。そのバランス?」
「ほお」
「悪いやつじゃないと思うんだよねえ。ワルじゃないけど、セックスには慣れてそう、みたいな。年は三十六、だったかな? アパレル関係の社長やってるって話、してましたよ。ショップもやってるらしい……おっと、こんなことはロダンさんのほうが詳しいんだっけ?」
「いや、どうだったかな、聞いたような聞かないような……」
ロダンは、そう言いながら、眉を少しだけあげる。
静かな夕暮れが部屋全体に入りこんで、ソファのうえに大きな影のかたまりができた。
横路は軽くからだを浮かして腕を伸ばし壁ぎわのスイッチを入れた。
彼が座っているのとは反対側のコーナーに立っているスタンドが明るくなった。その明かりは横路の顔に濃い陰影をつくった。
いままでとは違う顔つきに見えた。大きな餅がふいにひび割れたようだ。
「計画を中止したつもりが、結局、寝取られちまったわけですよ」
と、横路は、からだ全体で息をついた。
「でもまぁ、それはそれで、やっぱり刺激的ではあって……」
薄く膜を張ったような光のなかで、ロダンはなにも言わない。
「あいつが出て行ったのが三月。そのときはもう終わりかと思ってました。けど、あいつは翌日家に帰ってきた。帰ってきてから、わりとふつうにしてるんですよ。朝めしの用意もしてくれるし、区役所から戻れば食事もつくってくれる。まるでなにごともなかったような日常が戻ってきました。でも、昼間は出かけて藤森と会ってた。そんなことは、私、ちゃんとわかってました」
「…………」
「みょうに興奮しちゃってねぇ」
横路はひたいの汗を軽く手の甲でぬぐった。
「寝取られ願望があったからそういうことになっちゃって……なったらなったで、やっぱり興奮するんですよ。昼間、区役所で誰かの住民票を出力しながら、美由紀はいまごろ藤森とやってるんだと思うと、たまんないんですよ」
「なるほど」
そこではじめて、子宝ロダンはくっきりと笑顔をつくってうなずいた。
「奥さんを愛してるんだ」
「ですよ。そう、焼けるような気持ちってやつ? ひさしぶりでした。だからつい、夜になると美由紀に迫るわけです。でもあいつは、いやがる。藤森に対する思いもあるんでしょう。それでも私、興奮しちゃってるもんだから、もう、なかばレイプみたいにして、やっちゃう。自分の妻なのに、そういうふうにしないと、させてもらえないわけです」
横路はもう笑ってはいない。
「やったらやったで、美由紀の反応がこれまでとはまったく違うわけですよ。藤森に仕込まれたのか、それとも女のさがってやつなのか、濡れかたも尋常じゃないし、からだの動かしかたなんていうのも、いやぁ、ほんとに違ってた、それでますます、私、興奮しちゃって……」
子宝ロダンは黙ってうなずいてから、しっかりと横路を見た。そして、はっきりした声で言った。
「いい話です」
そして続けて、
「しみますね」
と、また、深くうなずいている。
「なに、それ」
横路伊久男は苦笑した。カミさんの寝取られ話に「しみる」と言われても困るしかない。けれど、そこで横路は、目の前にいるのが子宝ロダンということを改めて思い出したような気になった。
「そうかあ。やっぱり、あなた、子宝ロダンさんだねえ」
「はい?」
「そうそう……あんたはいつも、そんな感じで、いろんなところで他人のセックスを見てるんだ」
「そうです」
「そうなんだよなあ」
と、みょうに乾いた声で横路は腕を組んだ。
「ブログの感じと、目の前にいる子宝ロダンは、やっぱりちょっと、違うね」
頭をうしろにひきながら横路はロダンを見ている。
「実物は、やっぱり、なんか……不思議な感じだよねえ。少なくとも、セックスブログ書いてるようには、見えないもんなぁ」
それを聞いて、子宝ロダンは小さく首をかしげた。
「いかにもセックスブログを書いてるように見えるひとって、どんな感じですかね」
「はは、そりゃそうだ」
横路は明るく笑う。
「確かにね。ロダンさんが言うことは、もっともだ」
なぜか、そう言いながら、横路伊久男は楽しそうに笑っている。
そのまましばらく笑ってから、息を抜くように肩を落とした。
「でもさ……やっぱり出ていっちゃったんですよ。美由紀は……」
「…………」
「離婚するって言い張って、強硬なの……」
ソファのうえで汗まみれになって、大きな横路のからだはつぶれそうになっている。
「別れるしか、ないのかなぁ……せっかく子どもができたんだけどなぁ……」
横路が首をふるたびに、ぐらりぐらりと部屋が揺れたようになった。
葉の影が大きく左右に動いている。
「誰の子でもいいって思うんだよねえ、そんなの。戸籍上はおれの子なんだから。それが大切。戸籍なんだからさ……よりどころなんだから、日本人の……違います?」
「さあ」
新宿区役所の戸籍係に詰問されて、子宝ロダンは曖昧に笑うしかなかった。
「本気で、子ども、ほしいんですね」
思いついたように、ロダンは静かに言った。
横路が顔をあげる。
「でも、メールしたんでしょ、藤森圭介に。おなかの子どもがあんたの子だとは限らないぞって。ちょっと脅すみたいにして……あれは、なんだろう、嫉妬? なにかの宣言?」
ほんとうにどうなのか聞きたいような顔をしたが、そんなはずはないのだった。
横路は子宝ロダンのほう見て、くちびるの両端をさげた。
「だって……」
つぶれきった巨体は、そこで最後の空気が抜けていくみたいに、しょぼくれた。
「つらかったんすよ……ひとりで、わたしゃ、ほんとに、せっかく子どもができたのに、美由紀と別れるなんて、ほんとに、そんなこと……」
とうとう、横路伊久男は声をあげて泣きはじめた。
「おれはどうすりゃ、いいんすかあ」
大声をあげる横路に、ロダンは両方の手のひらを胸のあたりで横にふって、言った。
「だから、やせなさいって」
それが聞こえないように、横路はなおも号泣しつづけた。
〈11〉
十月に入って数日したころ、小笠原弁護士が藤森洋服店にやってくることになった。
午後二時過ぎに、圭介は美由紀とふたりで待った。
店の奥の小さなスペースに応接セットが置いてある。以前は母親が友人たちと一日中おしゃべりをしていた場所だ。店の一部という意味では無駄なスペースだと思っていたが、若いスタイリストたちが来たときに打ち合せで使ったりしているうちに、いつの間にか小さな冷蔵庫まで置くようになった。香澄屋の大村などは、ここを作戦室とまで呼んでいる。
その作戦室の奥に、圭介は美由紀と並んで座っていた。
優子は遠慮したのか、近所に出かけてしまっている。
「ちょっとした進展があったので、お店のほうにうかがいますよ」
とだけ、小笠原弁護士は電話口で言った。
少し前に話したときは、このままだと家庭裁判所での調停に入ることになるだろうということだった。離婚について双方の意見が食い違っている以上、第三者の調停に頼るしかない。もしそれでも解決しない場合は、裁判で争うことになる。
「まぁこういうのは、長くて不毛な闘いになるんだけど、気を長くもっていきましょう」
と、アドバイスされた。
それに向けての話し合いだという気がしていた。
美由紀ともそういう話をした。とにかく、いよいよ、新しい局面に入る。愛情という曖昧なきっかけではじまった夫婦関係が、法律という場に引っ張り出され、互いが主張を繰り広げ、過去の思い出を吟味しあうのだ。
圭介は朝からどんよりとした気持ちでいる。圭介自身は離婚調停の当事者ではないが、ふたりの論争の大きなテーマとして語られることになるのは間違いない。ネットの掲示板でのことも、おそらく先方は争点として出してくるだろうというのが小笠原弁護士の見立てだった。
「妻の浮気を計画したのは夫ですが、結果的には止めたんですからなぁ。夫婦関係の破綻は妻の側の要因であると主張してくるでしょう」
と、インターネット掲示板のことがわかっているのかいないのか、小笠原はのんびりとした口調で言った。
「まぁとにかく、長くて不毛な闘い、なんですなぁ」
小笠原弁護士は離婚の案件を扱うたびに依頼者にそう告げているのか、圭介に向かって何度も同じことを繰り返した。
二時半近くになって、ようやく小笠原が姿を見せた。駅前の事務所からだと数百メートルの距離だ。が、午前中に出たにもかかわらず、着いたのがこの時間というくらい、小笠原の歩みは遅い。店に入ってきてからも、とことことおもちゃのように足を進めた。
「わざわざすみません」
と、美由紀が迎えに出て、背中を抱くようにして奥へと案内する。
「いやいや、お待たせしましたね。すみませんすみません」
うろたえるように見つめる圭介の目に気づいたのか、小笠原は明るく笑った。
「裁判所へは、私はもう最近、行っとらんのですよ、さすがにね、こう老いぼれてしまうとね」
「はあ……」
などと、ぼんやりと圭介も笑うしかない。
「息子がね、行きますから。まぁ、美由紀さんの件も、そろそろ息子に頼もうかと思っておったのですがね、あはあは」
ようやく、小笠原はソファに腰をおろした。座るなり片隅の冷蔵庫に目をとめ、ほおほおと小さく息をもらした。
「あの冷蔵庫に、ビールは入っておりますか」
「ビール?」
圭介は上半身をねじるようにして冷蔵庫を開けた。
「あ、先生、ラッキーですよ、一本入ってました」
たぶん大村が入れたのだろう缶ビールを取り出して、テーブルに置いた。
「先生、もうビールですか。まだ三時前ですよ」
そう言いながらも、美由紀はガラスコップを持ってきた。
「いやぁのどが乾いちゃってねぇ。これは、私にとっては清涼飲料水なんですなぁ」
そう言いながら、手早くプルリングを引いて、小笠原はそのまま口をつけた。
「うへ、うまい」
と、いたずらしたような顔で、笑う。
圭介と美由紀は、並んで腰をおろして、ただそれを見つめているしかなった。
「さてさて、さて……」
圭介が見たところ、小笠原はひどく機嫌がよさそうに見えた。そう思いつつ、弁護士というのはトラブルが深刻になるほど喜ぶ人種ではないかという気もして、複雑な気持ちになった。
「今日の用件は……と」
かたわらに置いた薄いブリーフケースから、ひどく緩慢な動きで書類を取り出している。
ようやく小笠原がテーブルに置いたものは、大型の封筒だった。
文字に見覚えがあるのか、美由紀は封筒を見た瞬間に差出人がわかったようだ。
「花崎征雄から届きました……どうぞ、美由紀さん、なかをご覧になって」
そっと手を伸ばして、美由紀が封筒を手にして、なかを覗きこむ。数種類の書類が入っているようだ。
「これ……」
そのなかの一枚を開いて、美由紀は目を見開いた。
「四種類の……いやいや印鑑証明もあるから五種類ですかな……とにかくまぁ書類といっしょ手紙も入ってますんでね。すべて差し上げますから、あとでじっくり読んでください。まぁひとことで言えば、めでたく離婚が成立ってことですなぁ。判をついた離婚届けと参宮橋のマンションの権利書もあります。慰謝料という意味ですかなぁ」
わりとまじめな声で言ってから、小笠原弁護士はぐびりとビールを飲んだ。
「不動産は専門ではないですが、まぁ場所がいいから、売ればそれなりの値段はつくでしょう」
圭介は小笠原の顔を見つめながら、この弁護士もいまとても喜んでいるのではないかと思った。
「そうかぁ」
つい、腹の底から長い息とともに声が出た。
「離婚届けも入ってるの?」
と、覗きこんだ圭介に、美由紀がいま見ていた一枚の紙を差し出した。
「なにこれ、診断書?」
あまり見たことのない様式の書類だったが、いちばん上に診断書と書いてあったのでそのまま口にしてみた。
なんのことだかよくわからなったが、美由紀が押しつけるようにしてきたもう一枚の紙を見て納得がいった。パソコンで印字されたその書類には「親権放棄について」と書かれおり、最後に花崎征雄の自筆サインと印鑑もある。
「添付した診断書は私が無精子症であることを証明するものである。この診断書を根拠として、美由紀が離婚三百日以内に出産する子どもの親権を拒否する」
そう書かれていた。
花崎には子どもができないのだ。
自分が無精子症であることを彼はいつ知ったのだろうか。
そう考えて、圭介は、掲示板に「妻を誘惑してください」と書いた花崎征雄の気持ちを思った。妻をほかの男に誘惑させて、妊娠させて、自分の子どもとして育てることを本気で考えていたのかもしれない。
ぼんやりと美由紀を見ると、薄く涙をためている横顔があった。
マンションも手に入れて、もう彼女は経済的にも自立できる。
子どもが欲しいと望みながら無精子症だった征雄のことを、彼女はどう思っているのだろう。美由紀は知っていたのだろうか。
もう一度、美由紀の横顔を見た。
旦那の大逆転かなという気がした。
この封筒を送ってくることで、彼はもののみごとに、圭介より大きな存在感を美由紀に見せつけた。
それが、圭介には、はっきりとわかった。
小笠原が満足げにビールを飲む。
「そうかぁ」
と、圭介はまた言った。今度は、ひどい敗北感に打ちひしがれてのため息だった。
花崎征雄に腹が立っているわけではない。最後のあまりにおとなっぽい対応に負けた気がするのだ。
子どもは産む。離婚もする。圭介とも別れる。そう言いきった美由紀の思いどおりに、ものごとは進んでいるということだ。
美由紀が封筒を手にして、裏側を向けた。
そのはずみで、なにかが、開いた封筒の口から転がり出た。
それは床に落ちた。
チン、と、小さな音がした。その瞬間、圭介は手を伸ばして床ではずんだものを受けた。
手を広げてみた。
青いビー玉だった。
「おい、これ」
と、思わず、美由紀に向かって手を伸ばした。
「あれだよ」
圭介は目を見開いた。
美由紀のために買ったビー玉に違いなかった。
「あのビー玉、美由紀、どうしたんだっけ?」
食いつくように圭介は美由紀に訊いた。
「捨てたわよ、もらってすぐに」
「これ……ほら、出てきたぞ」
「そんなものが入っとりましたかなぁ」
などと、小笠原は驚いたような声をあげている。
「ほら、見てよ、これ、青いビー玉……美由紀に買ってきたやつだよ、これ。やっぱり、出てきたよ」
興奮したように声をあげて、ふいに、圭介は息を飲んだ。
手のひらの青いガラス玉に見入った。
出てきた。
ものすごい衝撃だった。このタイミングで花崎征雄が送ってきた封筒から転がり落ちてきた。
もう一度、美由紀を見た。目の前に座る小笠原弁護士の顔を見た。
藤森洋服店のなかをぐるりと見渡した。
「先生」
と、圭介は言った。
「つぎは、ぼくたちの結婚ですから。結婚しますから、ぜったいに、ぼくたち」
大声だった。
「花崎征雄は」
と、小笠原はうなずきながら言った。
「わざわざ診断書まで寄こしてますから、子どもは問題なく戸籍に入ります」
圭介は、小笠原がはじめて弁護士らしい顔をしたと思った。
「そうですか、それはいい、お願いします」
興奮した顔で、上半身ごと、圭介は美由紀を見た。
「な、美由紀。結婚だ。結婚するんだ。おれはいまわかった。花崎征雄から受け取ったんだ。大切なものを、受け取ったんだ。はっきりとわかるんだよ。これからは、おれなんだ、おれがきみのそばにいるんだ」
美由紀は、戸惑いながら、圭介を見ていた。
あまりに興奮している姿が、ちょっと哀しくもあった。
青いビー玉を見て、いきなりエキサイトしたようだ。
どうしてもっと冷静に考えないのか、理解できなかった。
美由紀は、圭介が子宝ロダンという男にどこまでなにを話したのか知らない。知らないけれど、封筒のなかから青いビー玉が出てきたことで、はっきりしたことがある。
子宝ロダンが、夫に会ったのだ。
青いビー玉はそのことの証明だ。
どんな話をしたのかはわからない。が、夫はそこで、これまでと考えかたを変えたのだ。そういう意味では、子宝ロダンがどう説得したのか聞いてみたい気もした。
離婚を拒否し、子どもの親権を主張していた征雄の考えを、一気に変えさせた。とはいえ、もともとは自分に対するいやがらせだったに違いないから、これもまた、そうむずかしい話ではないのかもしれない。
大声をあげて小笠原弁護士と話している圭介を見ながら、美由紀はぼんやりと考えていた。
ひどく冷静だった。
マンションの権利書まで送ってきたことには、正直驚いている。これは征雄の意地なのだろう。権利書を見た瞬間、送り返してやろうと一瞬思った自分がいるからこそ、その意地がよくわかる。
負けたくないのだ。
誰にも……。
そういうふうに考えると、夫の勝ちだということもよくわかる。
圭介の敗北感も理解できる。
どういうわけか、ここにきて、美由紀の頭はすっきりと冴えていた。
「な、お願いだから、その封筒持ってここから出ていくなんてことだけは、しないでくれよ」
圭介が小笠原を意識してか、冗談めかした口調で言った。拝むように手を合わせ、ぺこぺことお辞儀さえ加えている。
そうなのだ。
自分はもう、ここから出ていってもいいのだ。
そう思うことではじめて、世界が変わったことが理解できた。
いままでとは、違うふうに、すべてのものが見える。
私は、自由だ。
圭介がまたなにか言った。
ようやくこのひとも、自分の意思で、心の底から、私を手放したくないと思っているのだと実感できた。
それも悪くない。
おなかの子どもの父親は、間違いなく、このひとなのだ。
「そうね」
と、なにに対してよくわからないが、美由紀は明るくうなずいて見せた。
「だったら言わせてもらうけど」
美由紀は自分でなにを言ってるのか不思議な感覚で自分自身を眺めている。
「マネキンひとつでいいから、私にちょうだいよ。田中ヒロミほどじゃないかもしれないけど、この店に美由紀コーナーつくりたいわ」
自分はそんなことを考えていたのか、と、美由紀は笑いたいような気持ちで思った。
「もちろんだよ」
と、圭介がはじけるように笑った。
子宝ロダンシリーズ第1話『黄色玉』おわり